〈小説〉らぶりつください
1
花びらのようにちぎったティッシュペーパーに糊をつけ、頬に一枚ずつそっと貼っていく。手鏡で作業していた麻衣は顔をあげ、洗面台の大きな鏡で出来栄えを確認し、満足そうにうなずく。
手鏡とティッシュペーパーをカバンに直し、新たに取り出した血糊のキャップを開く。薬指の先に赤いインクをつけ、頬に貼ったティシュの欠片に叩くように少しずつ塗っていく。
「綺麗な傷にしたいんだ」
麻衣が言う。
優奈は答えず、手鏡に映る自分の額に、黒のアイライナーで斜めに線をひく。
麻衣は血糊のついた手を止め、「なんで黒なの?」と優奈に訊いた。
「黒で線描いてー、上から重ねて赤塗った方が本物っぽくない?」
「あー、優奈頭いい。美術の成績良かったもんねそういや」
血糊を塗っている麻衣の指に、赤いインクに染まったティッシュの欠片がついている。
「はがれてきちゃう」麻衣が言うと、「ちょっとかしてみ」と優奈が血糊のインクを麻衣から取り上げる。
ハロウィン当日の31日は平日でバイトがあるから、3日前の土曜に仮装して渋谷に行こうと麻衣が優奈を誘った。
駅の公衆トイレで仮装メイクする麻衣と優奈を迷惑そうに見る婦人が出ていき、次に入ってきた黒ずくめの服装の若い女は二人をチラリと見たあと個室に入る。
思い描いていた傷メイクには程遠い出来ばえだったが、赤いゴミが貼り付いているだけにも見える、ただれた皮膚のメイクを施した麻衣が「すごくない?本物っぽい」と喜んでいたので、優奈も自分のメイクを切り上げ二人で公衆トイレを後にした。
スクランブル交差点に出ると、台風が近づいている影響か風が強く、傘を差すほどではないが霧のような雨が降り続いている。それでも週末の渋谷はたくさんの仮装した人たちで溢れかえっていた。
「マジで雨つら」
「さむ!」
悲観的な言葉とは裏腹に、麻衣と優奈は高揚し、笑いながら交差点を渡り終え行くあてもなくジグザグとうろつく。
「写真撮ろ」と麻衣が言い、ファミリーマートの前で立ち止まり、スマホのレンズを自分達に向ける。麻衣のスマホにはミッキーマウスのイヤホンジャックがささっていて、優奈はそれをダサいと思ったが言わなかった。
「インスタとTwitterあげていい?」
スマホについた雨の滴を拭きながら、麻衣が慣れた手つきで写真をネットにアップする。
「これはあたし史上最高のファボ数になるかもしれない」
麻衣が自慢げに言う。
「あぁねー」優奈の返事はそっけない。
「見て」
麻衣がスマホの画面を差し出す。
優奈は差し出された画面に映っていた、麻衣のTwitterアカウントのツイートを読み上げる。
「……つらたん」
「82ファボ」麻衣が自慢げに言う。
「愛されてるぅー」
「そそ、ファボリツは愛だからね」
「ははは」
優奈はわざとらしく笑い、大げさに手を叩く。ミニオンの仮装をした若い男が「ナースかわいいー」と優奈たちに叫ぶように言い、後ろから連れの男たちがやめろよと笑いながら止めに入る。
先に歩き出した麻衣を追いかけながら、優奈は雨に濡れた前髪を気にして指で整えた。
「……愛ってなに」
麻衣が急に立ち止まり言う。
二人を避けるように人が通りすぎて行く。
「急にガチ」
優奈は半笑いで麻衣の顔を見た。
深刻な表情で遠くを見たまま動かない麻衣の頬には、雨に濡れた赤い血糊が涙みたいに不気味に垂れている。優奈は「もっかい写真」と自分のスマホを掲げ、我に返った麻衣は優奈のスマホのレンズに向かって上目遣いに表情を作る。
二人で撮ったナースゾンビ姿の写真を添付して、優奈は【#らぶりつください】とタグをつけツイートした。
そのツイートにすぐにひとつ目のいいねがつく。となりでスマホの操作をしている麻衣からだった。
麻衣はミーハーで、イベントごとが大好きで、ちょっと頭が悪い。
けれどとても優しい。麻衣が怒っているところを見たことがない。
そして優奈をいつも褒めてくれる。羨ましいといつも言ってくれる。
だから優奈は麻衣が好きだ。麻衣といると自分に自信が持てる。
優しい以外にも麻衣の良さはほかにもある。どこがと聞かれるとわからないけれど、麻衣のTwitterアカウントには優奈の何倍ものフォロワーがいるのだから、そのことが麻衣の良さを証明していると優奈は思っていた。
麻衣がそのフォロワーの中の数人と関係を持っていることは知っているが、そんなことは誰でもやっているし自分もチャンスさえあれば誰かに出会いたいと優奈は思っている。優奈にはその機会が無いだけだった。
愛が何かなんて知らない。知る訳がない。真剣に誰かを好きになったことすら無いのに。そんなことを考えながら、優奈は麻衣と雨の渋谷を歩き続けた。
翌日優奈は麻衣に教えてもらったマツエク専門店の入る雑居ビルにいた。初めてのマツエクを終え化粧直しをしたあと、古びたエレベーターで地上階に降りた優奈は、手鏡がわりにスマホのインカメラを起動し自分を見た。スマホを持つ手を調節し、よりまつげが長く見える角度で自分を撮る。Twitterを立ち上げ写真を添付すると、数秒考えてから「渋谷ぼっちなう」とツイートする。
数店のファッションブランドを見て回り、ビルの綺麗なトイレで用を足した後Twitterを開くと通知がある。DMに通知があり誰からかと開く。
麻衣と撮ったナースゾンビ姿の写真を添付したツイートにリプをくれた7trkだった。
——渋谷でぶらぶらしてるから良かったら飲みませんか。
スマホを閉じ、読まなかったことにして駅へ向かおうと歩き始めた。しかし目の前の交差点の信号の青が点滅し始める。走れば間に合ったけれど優奈は走らなかった。
会ってみたい。いや、会ってみよう。唐突に、けれど強く、優奈は思う。
会おうと決めたとたん心臓が激しく鼓動をうつ。スマホを取り出し、DMの画面を再度開く。「いいですよ」と文字を入力し、優奈はにやける。顔をあげ、周りを見渡し赤信号が青になる前に優奈は来た道を引き返した。
いつもなら無視していたフォロワーからの誘いに応じる気になったのは、マツエクをして気持ちが上がっていたせいもあるが、ナースゾンビの写真に「可愛いですね」とリプをくれたとき7trkのホームで画像を遡ると、上げていた自撮り写真が好みの顔だったことを思い出したのだ。
「6時にハチ公でどうですか?」
「嫌いな食べ物はありますか?」
「デニムに紺のアウターを着ています」
少し沸いた怖い気持ちもDMでの丁寧な待ち合わせのやり取りをするうち消えていった。
指定された場所に5分遅れて着いた優奈は、自分の服装を黒のスカートにグレーのトップスと申告したけれど、白いコーディガンでそれを隠した。
待ち合わせ時間が近づくにつれてまた怖くなってきた優奈は、こちらが先に7trkを見つけ、万が一気持ちが乗らなかったら帰ってしまおうと思った。
辺りを見回したが7trkは居なかった。さっき送られてきた7trkの首から下の自撮り写真を確認する。
待ち合わせ場所とは少しずれたところに隠れるようにいる男が写真と全く同じ服装をしていた。
男はうつむいてスマホを見ている。優奈は彼をじっと見た。絶対そうだ、思った瞬間男は急に顔をあげ、優奈は男と目が合う。
目をそらすことが出来ず、優奈はコーディガンで隠していた黒とグレーの服装が見えるよう前を開く。
男はホッとしたような一瞬表情を見せたが、固い表情を作り直し優奈へ歩み寄る。
「ユウさん?」
「はい」
「はじめまして」
きちんとスタイリングしてある黒い髪。眼鏡とグレープフルーツのような香り。
優奈は7trkの顔を直視できず、うつむいたまま歩き始めた彼の後をついて歩く。
「嫌いな食べ物ある?」
「いえ」
「酒飲める?あれ、未成年だっけ?」
「あ、二十歳です。あの、ちょっとなら、飲めます」
少し高圧的な話し方が気になったが、任せてしまったほうが楽だと思った優奈は7trkに素直に従い、彼の案内した店に入った。
「好きなもの注文していいよ」
7trkに言われ優奈はメニューを見る。
コースは驚くほど高い料金が書いてあり食べきれる自信がなかった。
単品にするならパスタかと思ったが、正直パスタの気分ではなかった。
「何にするんですか?」
困った優奈は7trkに訊く。
「俺?俺はあんま腹減ってないから。グラスワインだけ飲むわ」
え、と優奈は思う。しかしすぐに「飲みませんか」というメッセージの内容を思い出す。
確かに一緒に食事しようとは書かれていなかった。けれど食事を済ませているのならせめて、自分の食べたいものがある店を選ばせて欲しかったとも思う。
「ピザにします。一緒に食べてくれます?」
「あぁ……だね、ピザなら少しくらいは」
「じゃあ選んでもらっていいですか?私嫌いなものないんで」
優奈がお願いすると、「じゃこれでいい?」とマルゲリータを指さす。
優奈が返事する前に7trkは店員を呼んでいた。
注文を終えると7trkは黙ったままこちらを見ようともしないので、優奈は遠慮なく7trkを見た。
Twitterの自撮りで見た顔と同じなのに、実物はなぜか垢抜けない感じがした。
社会人だと思っていたが、大学生かもしれない。何か話しかけようと思ったが、「ななてぃーあーるけいさん」と呼ぶのはおかしい。
なんと呼びかければいいのだろう。
優奈が考えていると7trkが「よく来るの?こういうの?」と優奈に話しかけた。
「え?ここは初めて来ましたけど……」
「いや、じゃなくてさ、こういう誘いに応じるのかってこと」
少しイラついた様子で7trkが言う。
「いえ、初めてです。初めてなんで、どんな人が来るのかちょっと怖かったです」
優奈は正直に話す。
「あっそ、俺も初めて」
訊いてもいないのに7trkは言う。
テーブルにワインが運ばれ、優奈の頼んだカシスオレンジのグラスと合わせ、小さく乾杯する。
「なんて呼んだらいいですか?」
優奈は訊く。7trkはすぐに答えず、手で口元を抑え考え込むような表情をする。
「ななてぃーあーるけーさん……って呼びにくいんで」
「いるかな?」
「は?」
「ほんとの名前とかいる?」
「え」
「あー、長くて呼びにくいなら『ナナ』でいいよ」
7trkが答え、優奈は少しイラッとする。
まるでこちらが一方的に好意を寄せて、それを拒否されたようではないか。
「じゃあナナさんて呼びますね」
本当の名前を知りたかったのではないと強調するために何か言おうと思ったが、適当な言葉が浮かばなかった。
運ばれてきたピザのうち4ピースを7trkが食べ、優奈は3ピース食べた。
皿には冷えたピザが1ピース残っていた。
「これからどうする?」
7trkが言い、優奈は少しぎょっとする。
けして盛り上がったとは言えないこの出会いに、続きがあるのか。
「任せますけど……」優奈が言うと「二人きりになれるとこ行く?」と7trkが目も合わせずに言う。
優奈は笑いがこみ上げる。
この男は私と関係を持とうとしているのだろうか。初めからそれが目的だったのか。決して慣れた様子ではなくむしろ緊張感漂う表情で、でもそれを悟られまいと必死に強がっている。童貞ではないにせよ、経験豊富とはとうてい思えないような誘い方で。
「いいですよ」笑いを何とかこらえ、無表情を作り優奈は答える。
「いいんだ」怒ったような顔で7trkが言う。
「うん、フフ……いいよ」今度は少し笑ってしまう。
「最悪だな」
「は?」
「いくわけねぇだろ、馬鹿かよ!」
怒鳴るように言うと、7trkはテーブルの上の伝票をひったくるように取り、椅子に掛けていた上着も乱暴に持ち出口へ向かい清算を済ませる。
その様子を固まったまま優奈は見ることしかできない。
「ありがとうございましたー」と7trkが店員に見送られる。
テーブルには空になった2つのグラスと1ピースの冷えたピザ。
「なにあれ」
言いながら優奈はピザに手を伸ばす。
冷めているのにピザはまだ美味しかった。
咀嚼しながら優奈はスマホを取り出す。
Twitterの画面を開き、何か文字を打とうとするが止め、スマホの画面を閉じる。
「Twitterこわ」
言葉とは裏腹に自分が笑っていることに気づき、優奈は店員を呼び、さっき7trkが飲んだものと同じグラスワインを頼んでみる。
2
『まちゅぴちゅ』というアカウントをフォローしたのはTwitterを始めてからすぐのことだった。
誰をフォローすればいいのかわからないままTwitterを始めた陸は、まず有名人を数人フォローした。そのあと好きな小説家をフォローし、その小説家をフォローしている人たちのホームを見て回った。そのときすでに1000人のフォロワーがいたまちゅぴちゅの、何が気に入ったのかは覚えていないけれど、有名人ではない人をフォローすることは少なかったから、とにかく魅力的だったのだと陸は思う。
インスタグラムもやっているまちゅぴちゅは、上げた写真をTwitterにも連携させていたので陸は必ずいいねをした。
センスの良い服や靴、手作りのアクセサリーや美味しそうな彩りの料理。それらを撮影する際に映り込む綺麗に片付いた部屋。観葉植物とモダンな家具。
ツイートの内容から、陸より少し年上で、独身、彼氏はしばらくいないということがわかった。
初めから特別視していたわけではないけれど、毎日目にする彼女の私生活は陸にとっては、理想の女性と言えた。
その気持ちがはっきりと恋心だと自覚したのはまちゅぴちゅが自撮りを上げた時だ。
少し酔っぱらった週末気分が良くなり載せてしまったと、翌朝には削除されてしまったまちゅぴちゅの自撮り写真を、陸は自分のスマホに画像保存していた。
顔を見なくてももうすでに好きになっていたまちゅぴちゅは、美しかった。
暗めの茶色の髪は、シャープな顎のラインと綺麗な首筋が映えるショートカットで、少し切れ長の二重は色気があった。
まちゅぴちゅが映画を観たとツイートしていたのと同じ日に同じ映画を陸は観ていた。
まちゅぴちゅが呟いた映画の感想は、まさに自分が感じた事を気持ちが良いくらい的確に言葉にした内容だった。
だから陸は興奮した。自分の語彙力のなさが露呈すると思いながらもリプをせずにいられなかった。「僕も観ました」「ほんと?」「最高でした」「だったよね!」そこからまちゅぴちゅとのリプ合戦が続き、迷惑に感じたからか陸のフォロワーが数人減るほどだった。
そとあと気になるツイートをしている時に話しかけるようになった。まちゅぴちゅはどんな言葉を投げても丁寧に返してくれた。陸だけにではなく、まちゅぴちゅは誰にでも優しかった。
だからまちゅぴちゅはFF外からのクソリプにも丁寧に対応した。無視すればいいのに、と陸は思った。ある時まちゅぴちゅのすべてのツイートにクソリプしてくるアカウントが現れた。そういうことをするためだけに作ったアカウントのようだった。あまりにもしつこくクソリプを送りつけるのでまちゅぴちゅは呟くことをやめてしまった。それは一週間続いた。このままTwitterをやめてしまうのではないかと思った陸はまちゅぴちゅにDMを送った。
まちゅぴちゅとの関係が途絶えてしまうことが怖かった。
——大丈夫ですか?変な奴に絡まれていましたね、気にしない方がいいですよ
何度も何度も推敲し、最低限の言葉だけ残し送信する。まちゅぴちゅからすぐに返事がきた。まるで見張っていたような速さだった。
——ありがとう。ちょっと疲れてしまって、お休みしてました
——まちゅさんのツイートが見られないのは寂しいから、アカ変えるなら知らせてほしいです
——大丈夫、変えないよ。私も7trkさんのツイートこれからも見たいから
まちゅぴちゅからの文面を見て陸は小さく声をあげた。DMでのやりとりは、相手が文字を入力している最中だと知らせてくれるマークが出る。
今まさにまちゅぴちゅが文字を打ち、自分がそれに返信している。しかも相思相愛の内容を。まるでスマホを介して指先を触れあっているような恥ずかしさと嬉しさが込み上げた。
会いたい。まちゅぴちゅにどうすれば会えるだろう。
陸は日中そればかり考えるようになる。出来るだけ自然に、怪しまれずに、上手く誘う方法のヒントがどこかにないだろうか。
ところが誘ってきたのはまちゅぴちゅのほうだった。休日に陸が本屋で雑誌を買い、「渋谷のTSUTAYAで本買った」とツイートしたあとDMがきた。
——私も渋谷にいます。もし良かったら一緒に食事でもどうですか?だめなら遠慮なく断ってね
陸はその場で踊り出しそうだった。行く行く行く!行くに決まってる!興奮した陸はすぐに返事を送る
——僕も会いたいと思ってました。今どこ?迎えに行きます
まちゅぴちゅが告げた待ち合わせ場所に行く。
鼓動がどうにかなりそうなほど早くなる。
唇が渇き、何度も生唾を飲む。
冷静になれ。自分に言い聞かせる。はしゃいでいると悟られたくない。
なんでもないように装いたい。しかし気持ちとは裏腹に顔がどうしたってほころぶ。
会ったら何て言おう。
まずは名前を告げよう。
7trkは、本名が陸だから、7(なな)t(たい)r(り)k(く)、つまり七大陸なんだよと説明しよう。そして彼女の名前を聞こう。
「お待たせ」
背後から明るい声がした。振り向くとオレンジのワンピースを着た女性が立っていた。まちゅぴちゅだった。
現れたまちゅぴちゅは、思っていたより小柄だった。オレンジのワンピースの胸のあたりだけが素材の違う生地だった。
「あー、はい、こんに……いやこんばんは」
ふふふと上目使いにまちゅぴちゅが頬笑む。
何度も写真で見たとおりまちゅぴちゅは美しかった。綺麗で良い匂いがして陸の理想の相手だった。けれど何か違和感があった。さっきまでの高揚はそのせいですぐに収まった。想像していたよりも少し年齢が上のようなので、違和感はそのせいかなと自分を納得させた。
しかしまちゅぴちゅに会えたことは確かに嬉しかった。
「前から行きたかったところがあるの。付き合ってくれる?」
嬉しそうにまちゅぴちゅが言い、陸は「もちろん」と答える。
道中他愛もない話をまちゅぴちゅがして、陸の緊張感はほぐれていく。
赤い派手な入り口の店の前で「ここなの」と秘密基地を教えるような密やかさで言う。
「そうなんですね」陸はつられて小声になる。「行こう」とまちゅぴちゅが重たいドアを開ける。
民族音楽が流れている店内に入ると、顔の黒い外国人が陸たちを出迎えた。
案内された席に座り、見たこともない品名が並ぶメニューに陸は緊張する。
まちゅぴちゅは目を輝かせドリンクメニューに目を通す。
「とりあえずワインにする。ナナくんは?」
ナナくんが自分であると理解するのに数秒かかる。
「あ、じゃあ僕も同じもので」
「そ。……すいません!この赤をデキャンタで」
まちゅぴちゅが店員を呼び止め注文する。
飲み物の注文を終え、フードメニューを前に「どれにする?」とまちゅぴちゅが尋ねる。
陸は答えられない。
「わかんないよね、どれ食べればいいのか」
言ってまちゅぴちゅが頬笑むので陸はホッとする。
結局店員を呼び寄せメニューの説明を受けた。まちゅぴちゅが数点選び「これにする?」と訊きその全てに「じゃあそれで」と答えた。
二つのグラスにまちゅぴちゅがデキャンタからワインを注ぐ。乾杯をし、目が合い陸は照れる。
「カリンバという楽器にはまっているの。アフリカの民族楽器なんだけどね」
木の板に金属の細い棒が沢山並んでいるその楽器は音色がとても良いのだとまちゅぴちゅは熱心に話す。
いつかアフリカにいったら現地の人とカリンバで一緒に演奏したいらしい。
陸にはどうにもピンとこない話だった。
けれどまちゅぴちゅはそれからもアフリカの民族について調べた色々をいつまでも話した。
おかわりのデキャンタを頼み、ワインを沢山飲んだまちゅぴちゅはますます陽気になる。
まちゅぴちゅは陸のことをナナくんと呼んでは饒舌に語り尽くした。
陸は自分のことは何も話さなかった。用意していたアカウント名の由来すら、話す隙がなかった。
陸がトイレに行き、テーブルに戻るとまちゅぴちゅが「出ようか」と言い席を立つ。
伝票を探すが見当たらず、テーブルの下をのぞきこむ陸に「ここは出しといたから」
とまちゅぴちゅが言う。
「あ、そういう訳には」
「いいのいいの」
「じゃあ半分」言って陸は財布を出す。
「いいって!カードで払ったから半分がいくらかわかんないし。次に行くところで出して」
まちゅぴちゅが強く言い陸は引き下がる。
店を出るとまちゅぴちゅが腕を絡ませてくる。小柄なまちゅぴちゅは背のわりに胸が大きかった。腕に伝わる柔らかな感触に陸は動揺する。
「二人きりでゆっくり飲みなおそう」
さっきからずっと二人きりなのに……と陸は思いまちゅぴちゅを見たが、まちゅぴちゅはこちらを見ない。
ああそうか、陸は察する。どこか別の、二人きりの、他に誰も来ない室内で、ということか。
さっきまちゅぴちゅが言った『次に行くところ』はつまり、ラブホテルのような類のもののことか。
「悪いけど俺そういうつもりじゃないから」
考えるより先に口から言葉が出る。
え、と小さくまちゅぴちゅが言う。
「そんなふうにまちゅさんのこと、見てないから」
下心はない、と陸は言いたかった。汚れのない気持ちで、純粋な関係を築くために会いに来たのだと宣誓しているような気持で放った陸の言葉は、けれどまちゅぴちゅをひどく傷つけていた。
「なにそれ」
明らかにさっきとは違う表情で陸を見る。絡ませた腕はもうほどかれていた。
「何しに来たの」
だから……と説明しようとするが言葉にならずにうつむく。
小さく舌打ちが聞こえたような気がしてまちゅぴちゅを見る。
「帰ろっか!」笑顔でまちゅぴちゅが言うが目は全然笑っていない。
「ごめん……」
言うが陸はなぜ謝らなければならないのかわからなかった。
「また飲もう!私タクシー乗るから」
じゃ、と雑に手を振り逃げるようにまちゅぴちゅが去る。
取り残されて陸は茫然と立ち尽くす。
「なんだよ」
とりあえずまちゅぴちゅとは逆方向へ歩き出す。感情が整理できない。
腕にまちゅぴちゅの感触がまだ残っている。
自分の持ち物を見て陸はハッとする。今日買った本をさっきの多国籍料理店に置き忘れたことに気づく。
速足で来た道を戻る。
ああやっぱり自分が悪かったのかもしれないと陸は思う。
陸がまちゅぴちゅと関係を築きたいと思ったように彼女も自分と関係を築きたかったのかもしれない。それが自分とはちがうやり方だっただけなのかも。
店に着き、重い扉を開くと黒い顔の店員がいる。「本を」と陸が言っただけで店員は合点しレジ付近から本が入った袋を出し陸に渡す。礼を言い、店を出てスマホを出す。
きちんともう一度謝ろう。せっかくの誘いを断って悪かったと、心の準備が出来ていなかっただけだと、また会いたいのだと伝えよう。
Twitterを開きDMを見る。なぜかまちゅぴちゅがいない。
少し焦り通知欄を見る。タイムラインをさかのぼる。どこにもいない。
検索バーに『まちゅぴちゅ』と入力し、検索する。見慣れたアイコンを見つける。
いたいた、と思いアイコンに触れる。画面に「ブロックされているためツイートを見ることができません」と出る。
「はぁ!?」
無意識に声が出る。すれ違う人がぎょっとして陸を見る。
スマホを持つ手に力が入る。投げてしまいたい衝動にかられる。
あのクソ女!!
さっきまでの好意は瞬時に憎悪に変わる。
死ね!!
心の中で叫ぶ。
馬鹿にしやがって。あのチビのクソビッチが。死ね、死ね、殺されろ。
叫んでも叫んでも怒りが収まらない。
悶々としているうちに陸の中に小さく悲しい気持ちが生まれる。
陸は疲れて考えるのを止める。うなだれて帰路につく。
数日後、陸は思いつく。新しいアカウントを作ってまちゅぴちゅに嫌がらせでもしよう。けれど同時に思い出す。執拗にクソリプを送っていた人物を。
もしかしたらあれは、自分のようにもてあそばれた男の復讐ではなかったのか。だとしたらあの女は、こうやって手当たり次第に男とコンタクトをとり、関係を持つことを目的として会っているのではないか。
そう思うと馬鹿らしくなる。あの女に執着しているほど自分は暇ではないのだ。
陸はまちゅぴちゅにブロックされたアカウントを消そうかとも考えた。けれどそれは敗北のような気がしてやめた。
たまたま外れくじを引いてしまっただけで、自分のように純粋な関係を築きたいと思ってTwitterをやっている人も大勢いるはずだ。
しばらくTwitterから離れていたが、そんな風に思い直し、確かめたいような気持ちで陸はTwitterを再開した。
今まではまちゅぴちゅばかり見ていたが、そういえばいつもいいねをくれる『ユウ』というアカウントが急に気になり始めた陸は、ユウのホームをよく見に行くようになる。
週末、ナースの格好で顔に赤いインクを付けた写真をアップしていた。ハロウィンって今日だったっけ? 思いながら陸はそのツイートに「可愛いですね」とリプを送る。
3
Twitterのオフ会でネオと初めて会った。想像していた通りの人もいたし想像していたのと違う人もいた。
けれどネオだけは特別だった。
想像していたはるか上を行く格好良さだった。
明るい茶色のマッシュショートの髪はくせなのかパーマなのか緩いウェーブで、良く似合っていた。
くっきりとした二重の目、艶のある肌、鼻筋の通った綺麗な顔立ち。鼻にかかる甘えたような声。
オフ会ではネオとは離れた席になり、他の男と話していてもネオが気になって仕方がなかった。しかしネオには常に女が複数人話しかけており、麻衣は結局ネオとろくに話せないまま会は解散になった。
だから数日後、DMで次は二人で会おうとネオからメッセージが来たとき、人違いではないかと麻衣は思った。
戸惑いながらも「わたしでいいの?」と返信した。
Twitterで知り合って実際に男に会ったことは何度かあった。
関係を持ったこともある。
ホテルで手足を縛られたまま置き去りにされた時はさすがにこういうことはもうやめようと思った。
けれど麻衣にはネオからの誘いを断る理由など無かった。
すぐに日時を提案し、ネオがそれに応じた。
待ち合わせに現れたネオを見たとき、麻衣は泣きそうになった。
色んな男に会い、怖い思いもしたけれど、それは全部ネオに会うためだったのだと思った。
そうだ、もう、オフ会で初めてネオを見た時から、私は恋をしてしまった。
それは今までの恋とは全然違う、本気の、本物の恋。
ネオは麻衣を見つけて微笑んだ。何も言わなかった。今までずっと恋人同志だったかのように自然に、麻衣の手を掴んだ。
何か話そうと思ったが何も言えなかった。
手を繋いだまま少し歩き、カレー専門店に入った。
「カレーでいい?」とネオが言ったときにはすでに二人は店内の席に着いていた。
ネオが奨めるカレーを麻衣は食べた。食べきれないと麻衣が言うと残りをネオが食べた。
額ににじんだ汗を紙ナプキンで拭きながら「カレー好きなんだ」とネオが笑った。可愛いかった。もう気絶しそうなくらい好きだと思った。
カレー専門店を出て、また手を繋ぎ歩いているとネオが鼻唄を歌った。知っている曲だった。歩道のコンクリートの花壇に座ろうとネオが言い二人で並んで腰かける。二人の前を人が行き過ぎていくが構わずネオが麻衣の肩を抱く。
「マイ、ミッキー好きなの?」ネオが訊く。
「なんで?」
言った瞬間思い出す。確か友達にディズニーランドの土産でもらったポーチの写真をTwitterにあげ、そのポーチにプリントされたミッキーマウスを可愛いとツイートしたことがある。
「あれ大分前だよ写真アップしたの」
「はい」
ネオが差し出した手にミッキーマウスのイヤホンジャックが乗っている。
「あげる」
本当は、ミッキーマウスなんか好きじゃなかった。でも麻衣は受け取った。今から好きになろうと思った。
「俺見てるもん」
「なぁに」
「俺マイのホームいっつも見る」
「なんで」
「好きなのかもしれない。だから誘った」
言ってネオは麻衣の頬に手のひらで触れた。
「いい?」とネオが訊き、何に対しての問いかけかわからないまま麻衣はいいよと答える。
ネオが一瞬触れるだけのキスをする。
「名前、教えて」麻衣が言う。
「リョウタ」ネオが答える。
「マイは?」
「マイは麻衣だよ」
「え、そなの?」
「だめ?」
「ううん、かわいい」
体を寄せあって、それからお互いの話をした。ネオは何を訊いても全部答えてくれた。
家族は母と、姉と、猫。好きな食べ物はカレーで、嫌いな食べ物はトマト。小学校の時少しいじめられていた話もしてくれた。そのまま自然に話の延長で、いくら持ってる?と聞かれた。財布の中身を言うと「半分こでホテル行かない?」とネオが笑いかけた。
「行く!」とはしゃいで麻衣は答えた。素直に嬉しかった。
裏通りの、寂れたラブホテルに入った。
それまでと違い急に無口になったネオは、部屋に入るなり麻衣の服を脱がせはじめた。そのままベッドに押し倒され、「好きだよマイ」とネオが言う。
ネオの頬を麻衣は両手で包んだ。
「私も好き」
舌を絡ませる濃厚なキスをされ、脳みそがとろけるような感覚を麻衣は味わう。
瞼や鼻、そして首筋にネオは優しくキスをした。
麻衣の息遣いは荒くなり、体すべてが性感帯のように火照りたまらず声を漏らす。ネオは今までのどの男よりも優しかった。繊細な指の動きと唇の熱さ。
十分に準備ができている麻衣を焦らし、微笑みかけるネオの潤んだ瞳に影を落とすまつ毛。
ネオとひとつになったとき、このまま死んでもいいと麻衣は思った。
命が惜しくなくなるような、こんな性交があるなんて。
突き上げられてベッドの上に上にずれていく麻衣の体を、ネオがその都度優しく抱いて引き下げる。
「ネオ」遠のく意識のなか、麻衣はネオを何度も呼ぶ。今まで知ることのなかった絶頂の中にいる麻衣には、ネオの返事は届かない。
次の日から麻衣はネオのTwitterのホームに貼り付いた。
ネオのツイートにつくリプやネオが他人に返したリプも隅々まで読んだ。
胸の写真をネオのDMに送ったアカウントを見つけると、憎たらしい気持ちでいっぱいになった。ネオはその女を無視しているようだがしつこくリプやいいねをするその女をネオはブロックしてはいないようだった。
何度もリプし合い、ネオ が「ちょっと奥へ来なさい」と返したきり会話が途絶えているツイートを見つけた。きっと相互のフォロワーでDMかLINEに切り替えて二人だけで話をしたのだろうと想像しただけで胸がキリキリと痛んだ。
だから二度目のネオからの誘いは本当に嬉しかった。
一度目と同じ場所で待ち合わせ、そのまますぐにホテルに直行した。
ホテルの冷蔵庫からビールを出しネオは飲んだ。
「マイも飲む?」
麻衣は首を横に降ったあと「やっぱり飲む」とネオの持つ缶を奪って飲む。
いくつもの問いかけが頭に浮かぶ。
けれど麻衣はその言葉を全部飲み込む。
お前の好きは重いんだと元カレには振られた。
気が狂いそうなほど好きだと打ち明ければ、ネオに嫌われるかもしれない。
黙る以外に好きな気持ちを隠す方法がわからない。何を話してもばれてしまいそうだった。
ネオが「なんか元気なくね?」と訊いてくる。
泣きそうになるのをこらえ「会いたかったし」となんとか答える。
「俺も」
ネオが言い、頭を撫でてくる。
「好き?」麻衣は訊いてしまう。
「好き」ネオは迷わず答える。
それから先のことはあまり覚えていなかった。三時間の間に二度性交をし、そのうち一度は気を失いかけたということだけ覚えていた。
別れ際もネオは優しかった。家に帰ってからも、体が火照ってしかたなかった。
三度目は麻衣が誘った。
一度断られ、提案したのとは別の日に約束を取り付けた。
待ち合わせを30分過ぎたところでネオから「ごめんあと10分遅れる」とLINEがくる。
麻衣は「り!」とだけ文字を返す。
ネオを待つ間、麻衣は友達の優奈にLINEを送る。
——もうすぐハロウィンだけど、ハロウィン当日はバイトが入ってるから、今度の週末に渋谷で仮装しない?
すぐに既読になり優奈からOKのスタンプが届く。
結局待ち合わせ時刻を一時間過ぎてネオが現れた。
いつもと変わらない笑顔を見つけホッとする。
性交を終え、ベッドでスマホをいじるネオの横顔をじっと見る。
「ネオたんの愛が欲しい」麻衣が呟く。
「いつもあげてんじゃん、ファボ。ファボリツは俺の愛だから」
言ってネオはため息をつき、見ていたスマホを暗い画面にする。
「マイは俺の一万人いるフォロワーから選んだ一人なんだよ」
そうじゃない。
こんな小さな画面の中でもらうハートなどいらない。
どこの誰だかわからないまま繰り返される他の女との会話も見たくない。
「だってこんなに好きになったのはじめてなんだもん」
麻衣は言いながら自分の頬に涙が伝っていることに気づく。けれどもう我慢できないしするつもりもなかった。
「好きなんだもん」
「んぁぁわかったよ」
ネオが笑い麻衣の髪を撫でる。
「本カノにして」
麻衣が言うとネオは麻衣を抱きしめる。
ネオの胸の鼓動が聞こえるような気がする。
「俺そういうのちょっとわかんない」
なんで?なんでわかんないの?私を一番にしてってことだよ、他の女と会わないでねってこと、なんでわかんないの?
次々に言葉が浮かぶけれど、麻衣はそのどれも声にはできない。
ネオが好き。
一緒にいられるだけでいい。
「好き?」
やっとのことでそれだけを訊く。
「好き」ネオは即答する。
明け方、仕事だから始発で帰りたいとネオに起こされる。
化粧も取れ髪も乱れていたが、ネオが急いでいたので麻衣は歯だけを磨き急いで支度した。ラブホテルを出て、人気のない明けたばかりの薄暗い路地を歩く。誰かの吐瀉物で汚れたアスファルト。カラスの鳴き声。
大通りに出ると、しんと空気が冷えている。
麻衣はネオの手を取り繋ぐ。
ぴったりと、体を寄せ合って歩く。
ネオはずっと黙っている。
端からみれば恋人にしか見えないだろう私たちは、決して結ばれてなどいない。その事実を明るくなる空が告げているように思えて、麻衣はたじろぐ。
駅に着き、改札をネオが通るのを見送る。
かける言葉は見つからないまま寂しくてたまらず呼び止める。
「ねぇ」
ネオのフォロワーの一人ではなく、リョウタのたった一人の特別になりたい。
「ねぇ!」
私たちは、普通の恋を、ここから始めることはできないのかな?
「ネオ……リョウタ!」
「あ」
ネオが振り向く。
嬉しいのに泣きそうになって顔が歪む。
「……そだ、俺、来月誕生日だから」
言ってネオは背を向け、振り返ることなくホームへの階段を下りる。
一人残されて麻衣は、頭が真っ白になる。
今日は、何曜日だっけ?
私は今からどこへ行けばいいのだっけ?
スマホをカバンから出し、Twitterを開く。
ネオのホームへ行く。
数秒考えてから、ツイートの画面を開く。
「つらたん」と文字を入力し、送信する。
今ごろホームで電車を待ちながらタイムラインを見ているであろうネオから、いいねがつくのを待つ。
了
※本作品はフィクションです。実在する同名Twitterアカウントとは一切関係ありません。
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