子どものチャレンジを見守るためにできること
親になって生まれたちいさな悩み。自分のことはパッパと自分がやってしまえばいいけれど、娘みーちゃんのことはそうはいかないということ。
みーちゃんには自分でやれる力をつけて欲しいと思ってはいる。なんだけど、子どもにやらせてみるって、思ってたよりだいぶ大変だ。
つい手をだしてしまったあの日
あれは娘みーちゃんが1歳を過ぎて活発に歩くようになった頃のこと。
その日遊んでいた公園のはじっこは、なだらかに地面が盛り上がってちょっとした丘みたいだった。
好奇心旺盛なみーちゃんは平地の探検に飽きてその丘に狙いを定めた。よいしょよいしょと登っていく。私はその後ろにぴったりついていた。転んだらさっと抱き上げられるように。
無事頂上に到着し満足したみーちゃん。今度は丘を下りようと下を向いたときー私は反射で声をあげていた。
「はーい、じゃあおろしますよー」
私は風のようにみーちゃんをさっと持ち上げ、平地にすとんと下ろした。
やったあとではっと私は我にかえった。
(これって手を出さずにみーちゃん自身で降りさせたほうが良かったかな…?)
(過保護だったかな…?)
「坂道は危ない!」瞬間的に私はそう思ったのだ。だって歩くのはだいぶ達者になったとはいえ結構転びもするから。木の根っこによくつまづいていた。だからとっさに手を出した。
でもそれって、本当に手をださないとできないことだったんだろうか。
反射でみーちゃんを遮ってしまって、よかったんだろうか。
こうやっていつも反射で手を出してしまっていたら、本当に安全な(と私が思う)ことしかみーちゃんにさせなくなってしまいそう。
私が安全と思う条件はきっと、「スキルが足りてて」「失敗しない」こと。
でもそれって練習するときはどちらも足りてないのが普通なんじゃないだろうか。
ありゃあ。見事にループ構造だ。
練習には失敗がつきもの。
→でも練習してる姿って危なっかしい。怪我しそうでみてられない。
→つい手が出て止めてしまう。
→みーちゃんが練習する場がなくなってしまい、上達しないので危なっかしいまま。
→最初に戻る。
このブラックホールは吸い込まれたくはないなぁと思う。
けれど親として危険からは守りたい。その気持ちもある。
どこまでならやらせてよくて、
どこからは危険だから介入してよいの?
手をだしてしまう時に欠けていること
こういう風に堂々巡りに考えてしまうとき、私に足りてないことがあることに気づいた。
それは「観察」。
みーちゃんの力量を、
実際のみーちゃんの様子を細かく見ることで
もうちょっと詳しく推し量ること。
そういう根気というか現場主義なスタンスがちょーっと足りないとき、つい手を出してしまって後悔するのだった。
例えば冒頭に書いた「坂をくだる」動作がみーちゃんにできるのかということについて。
実際に坂を下らせてみるのが危ない気がするなら、他の日常動作をもうちょっと観察する。
・平地で歩くときをじっくりみる
→ふむふむ。足はわりと踏ん張れてるな。
→木の根があったらちょっと止まったり、
用心深さはあるな。
→でも前しかみてなくて転ぶときもあるな。
足はちゃんと踏ん張れてるのだから坂でも急にこけたりはしなさそうだ。みーちゃんは用心深さもある。そういうことが、頭のなかでぐるぐる考える間は分からなくても、現実のみーちゃんの様子を細かく分析するとわかってくる。
すると安心度があがって、反射でついみーちゃんのチャレンジを止めてしまうことは減った。
「こどもを危険から守る」
「こどもにチャレンジさせる」
この二つは相反しているように見えるけれど、
結局のところ程度問題なのかもしれない。
失敗から学ぶ効率のよいのは、力量より少しだけ上のことにチャレンジすることだ…そんな話を聞いたような気がする。あまりに力量からかけ離れたことをさせれば失敗の確率も失敗したときの影響も大きくなりすぎるらしい。
こどもの力量の少し上にチャレンジさせる。
ただしこどもの力量よりあまりに大きすぎることは危険なので遠ざける。
そのためには「何をやらせてはいけないか」を頭のなかでぐるぐる考えるのでなくて、
「この子にはどれくらいの力がありそうか」を実際に観察して計測する。
そういうことが大事みたいだった。
あと我慢も大事。ちょっとのことなら「危ない!」という声を飲み込んで、出したくなる手をひっこめる。根気とも言うかもしれない。
親はこんな大変なことをやっていたのかぁと思うと、知らない世界を垣間見たようでボーゼンとするのだった。