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子育ても家事も背負いすぎはあかん

最近思うこと。

こどもの責任はこどもの責任。
家事の責任は家族の責任。
自分に同化させず、時には突き放すことも必要。

こどもが転ぶのは、こどもの責任。
こどもの服が濡れるのはこどもの責任。
(それができる発達に達してるかはみないといけないけど)
自分の足で歩けるこどもを、いつまでも転ばないように手をひくのは、「あたしはころばないようにがんばらなくていい、だっておかあさんがてをひいてくれる」と思わせてしまうかも。
「ほらそこに置くとコップをこぼすよ」とつい声をかけてしまうのは、「どうすれば濡れて不快にならずにすむかな?」と考える隙を奪ってしまう。

冷蔵庫のストックが切れるのは、私も含めた「家族の」責任だ。
リビングが散らかってるのは、私も含めた「家族の」責任だ。
もし私がどちらもせっせと片付けてたら、「それはお母さんの仕事なのね」と誰も疑問に思わない。

けれど、突き放すというのもなかなか難しい。
だって人間は想像力のいきもの。
他者をおもんばかって集団で行動する、その人間らしいことができるのは、少なからず他者に自己を投影して、「きっとこうしてほしいにちがいない」と推察するから。
一緒にいる時間が長くなり情が深くなる家族ならなおのこと、想像力をたくましくしてしまう。人間くさくて愛おしい性質。

けれど行き過ぎるとそれは同化になる。家族のパーソナルスペースー選択権ーを盗ってしまう。

子はいつか親がいないあとを生きていく。確実に。
家族だって、私がいつでも健在とはかぎらない。
だから、同化のしすぎはいけない。
あなたはあなた、わたしはわたし、それがいい。

突き放したらこどもがケガをするかもしれない。
けれど自由は痛快と私は知ってる。こどもにも楽しく愉快に生きてほしいと思う。
あなたの挑戦であなたがもし死んでしまっても、「ばかだねぇ」と泣いてなでてあげるのも私の仕事とおもってる。

さて、突き放すにはどうするか。 
これは真面目属性にはけっこう難問。
私なりの解は「のんびり母さん、という役を演じる」というもの。学生時代は演劇部だったから、役にたりきる、という感覚はいっそ真面目にやれる。

あえて(といいつつ疲れてできないのも半分)解像度をさげてふわふわしてみる。
「え?牛乳切れちゃった?そうだっけ?」
ととぼけてみる。   
うわーあれコップこぼすなぁと思い付いたのをそのままにしてみる。 

最初は悲惨な結果になる。でも何度かやってるうちにいつの間にか、娘はコップをこぼさず飲むようになってた。
お父さんも在庫を気にしてくれるようになった。


はい最後のツッコミは、
「おまえそのモード仕事でもオンにできるようにしとけ!」
メンタル休職から復職したての私、鋭意勉学中でーす(゚ー゚*)