見出し画像

私の現在地

お久しぶりです。ベッドでムーミン抱きかかえながら書いてます(笑)
えっと、嘘です笑
書き始めました、が正しい笑 想定以上に長くなってしまったので、何度かに分けて、かなり時間をかけて書きました。

何か書きたい想いはあって、ずっと文章は書いてて。とりとめない、日記のようなものだけど。

思ってることを書いてみようと思います。書くことだけはやめられず、下書きのアーカイブ何個あるんだろうねって、物書き中毒仲間(笑)である友達と笑ってたんですけど、見る人は少ないとはいえ、オープンにするべき内容なのかどうか、ずっと迷っていました。

これまでだって、取り留めなく、あられもない感情を吐露してきてるんですが、そのたびに後悔して、でもこれが私だなあと受け止めて。そんなことを繰り返していました。

私の近況や考えてることのシェアなんて、ダレトク?って感じなんですが、私はこれは自分のためにやっています。言葉が好きで、自分を表現することが本当は大好きで、うずうずしている自分のために。

だからもう全部、書くことにしました。私の人生の今までと今とこれから。大したことない人生なので、逆に隠すことも別にないかなあと(笑)

前置きが長くなりましたが、大したことはなくても私にとっては大切な人生のお話です。この先の人生をしっかり大地を踏み締めて歩けるように、これまで歩いてきた道をちゃんと確かめるために、書きました。とても長いですが、物語だと思ってお付き合いいただける方がもしいれば、とても幸せです。😌


少し、幸せ♡

私の現状は、平たく言うと、休職中、になるのかな?それもアルバイトを。(笑)なんだか、世間の大部分の方々に怒られそうな人生を送っている今です。

今年6月に26歳になる私は、3年前に大学を卒業してから介護、地域おこし協力隊、学童保育と、3つの職を渡り歩き、適応障害になったり、ADHDの診断が正式におりたり、躁鬱傾向があることを自覚し、心療内科に通い薬を飲み始めたり、訪問看護にきてもらうようになったりしました。

今は自分の心身の土台築きの最中です。正社員は今の状態では難しいだろうし、まだまだ不安定で、たくさんの人に助けを求めて生きている状態です。

それでも10年以上、心身の不安定さがついて回っていたのに、この一年でやっとそこに本気で向き合い始めている、という感じです。

正直、遅かったと思います。
自分自身に、謝りたい気持ちがふとこみ上げる、この頃です。

それでも、何もしてこなかったわけじゃなかったんだなあと、今、周りを見わたして、すごく思います。

今私は、たくさんの人たちのおかげで、そしてこれまでをちゃんと生きてきた自分自身のおかげで、少し、幸せだからです。

波はまだまだあって、すぐ辛くなって立ち止まりそうになるし、自分が幸せになっていいと思えないこともある。だけど、幸せを感じる瞬間が確実に増えてる。

だから“少し、幸せ”
これが私の現状だなと思うんです。


私が生きる価値

これまでの私は、とにかく誰かに認められることを求めてきました。

親戚の中でも一番最初に生まれた私は、ちやほやされ、かわいがられたため、自分を過大評価していたようで(笑)小さい頃はとにかく我の強い子どもだったそうです。そのせいか昔から嫌われやすく、小学生になるとそれが徐々に、「人間関係がうまくいかない」という悩みに変わりました。わかりやすいいじめはなかったものの、拒絶される、仲間外れにされる、嫌われる、昨日まで仲良かった友達が離れていく。そういうことの繰り返しの日々で、当時の私にとってはとても悲しく、つらく、そして恥ずかしいことでした。

だから、あまり周りに助けを求められず、友達に嫌われないよう、自分で一つ一つの言動に気遣ったり、ひとり反省会をするようになりました。

中学生になっても相変わらず人間関係を築くのはへたくそで、いじめが茶飯事だったクラスで、大好きな友達がいじめられたり、それが自分にかわったり、部活の友達と大喧嘩をしたり、クラスで孤立したり、部活内での対立に関わることになったり。私が(当時の自分も含め)“中学生は全員クソガキだ(愛を込めて笑)”と思うようになったくらい、ハードな中学生活でした笑

でも1番辛かったのは、辛いことがあっても、悲しいことがあっても、それを話して寄り添ってくれる人がいなかったことでした。

以前当時の私にことを母に聞くと、とにかくずっとイライラしてて、かえがいると空気が凍りついてたと、言っていました。それほど周りに対して警戒心を持っていたのだなと思います。家にも学校にもどこにも信じられる居場所はありませんでした。

勉強だけは、というか、テストだけはできたので、いい点を取ると母や父に褒められました。褒めてもらえるのが嬉しくて、勉強ばかりしていました。私にできるのは勉強しかない。勉強ができるからお母さんに認めてもらえるんだって、本気でそう思っていました。父はいい意味でもよくない意味でも(笑)そこまで干渉してこなかったので、私にとっては母が、わたし自身の存在意義を決める人でした。厳しい人でしたが、母を信じていたし、母が絶対だと思っていたからだと思います。

高校生になると、突然張り詰めていた糸がぷつんと切れたように、動けなくなりました。何が原因かはわかりません。

県外受験をして、中学の卒業式の日が受験日だった第一志望の高校に落ちたから

12年住んでいた広島を離れ大阪に来て、新しい土地と人に馴染めなかったから

それまで積み重ね続けた孤独や苦しみが、溜まりきって溢れてしまったから

考えられる原因は今なら挙げられますが、その時は本当に分かりませんでした。ただ、身体中で、心全部で、しんどいよって訴えかけていたことは覚えています。学校にはどんどん通えなくなり、家族に当たり散らし、母や弟と毎日のように喧嘩をして、毎日自室のベッドにこもっていました。自分の殻に完全に閉じこもるようになったのがこの頃だったような気がします。

母に連れられるがままに病院、心療内科、鍼灸、整体、カウンセリング、民間療法、当時ネットに上がっているいろんな健康法、色々試しましたが、何より私自身に心から治そうという気がなかったんだと思います。なにをやっても効果はなく、どれも続きませんでした。

なぜ治そうという気がなかったか、私もはっきりとは覚えていませんが、“そういうところに行かなければならない、しなければならない”ということ自体が、受け入れ難く、本当にイヤだった。なんで普通に生きられないんだろうと思っていたし、こんな高校生活送るくらいならいっそ生きるのをやめたいと、毎日思っていました。

そう思いながらも、生きることをやめることにも本気にはなれず、日々をただ堪えて生きていました。

私の生きる価値を探し、守ることに必死になり、それに疲れてきってしまった学生時代でした。


私はもっとやれるはず

単位がギリギリで、進級はギリできるけどこのままだったら卒業はできない。
とうとう担任の先生にそう言われてしまった高2の冬ごろ、最初に入学した高校を辞めて通信制高校に転入する決断をしました。

もう既に、心と身体は限界だったと思います。

でも、私には厄介なプライドがずっとあって。
“勉強だけが私自身が認めてもらえること。”
通信制高校に行くことは、今まで歩いていた、みんなと同じ道を外れる感覚でした。

置いていかれる。落ちこぼれだ。普通じゃない。

そんな感覚でいっぱいでした。

そしてもうズタボロだった心と身体に鞭を打つように、通信制高校と同時に、海外の大学への留学を目指す英語の専門学校に通うことにしました。

私はずっと、”まだみんなと同じようにやれる。私はもっとやれる” そう、信じたかった、んだと思います。

環境は前と同じか、それよりもハードなところだったので、限界の心と身体は、よくなることは愚か、悪化していく一方でした。

当時行こうと思っていたアメリカの大学は諦めるしかない。北欧の大学が、学費も安くて、自分でエントリーして行けるかもしれない。でも正直、もう身体も心もそこまで頑張れるエネルギー、ないかも...
そう悩んでいた矢先、家族の中で問題が起き、留学に行くことは、そのタイミングでは完全にできなくなりました。

家族に起きたその問題は私にも家族全体にも大きなダメージを与えましたが、留学に行けなくなったこと自体には少しほっとしていたような気がします。自分で決めなくて良くなったから、です。
最近までそのとき留学に行けなかったのを半分その問題のせいにしていたくらい、私は弱く、無駄なプライドを守るのに必死でした。

それが高3の1月。
留学は日本の大学に入って行くことに決め、1週間ほどで受ける大学を探しました。といっても、英語の勉強しかしていなかったので、英語一本で受けられる、且つ留学制度が充実しているという条件で、しかもこの時期から受験できる大学は限られます。結果的に関西外国語大学に行くことにしました。

大学生になっても、最初は身体と心がついていかないことをお構いなしに、自分自身にたくさんのハードルを課し、それをギリギリの状態で飛び越えたり、倒しそうになったりしながら過ごしました。完全に倒してしまってからようやく、少しペースダウンを覚え、3年生ごろから何とか、大学生活を楽しめるようになり、海外のビジネスインターンに行ったり、大好きなアカペラを楽しんだり、好きな授業の勉強に没頭したり、私のそれまでの人生の中では一番といっていいほど充実した時間を過ごしました。ようやく私は周りと少しは対等でいられるようになったのかなと思っていました。

留学を目指して4年目、(ぱっと決めてぱっと行ける人もいるような留学に、4年もかかったのかというつっこみは、素直に受け入れます(笑)が、私にとっては、結果的に大変な長期戦になりました。)高校3年生、大学1年生の2回の挫折を経てやっと、1年の留学に奨学金で行けることになりました。うれしかったけれど、これだけ時間をかけ、たくさんのサポートを家族から受けて、ギリギリの状態でかなえたようなものだったので、複雑な気持ちでした。それでも5年かけた思いを遂げられたので、やっといけるんだとワクワクしながら、日本を発ちました。それが、2020年の1月でした。

家族や友達全員からたくさんの応援を受けて、盛大に送り出されたにもかかわらず、たったの3か月、もたたないうちに、帰国することになりました。



人生停滞期

帰国後も、単位を取らないといけないので、一人暮らしで、家にこもってひたすら先生たちとメールでやり取りをしつつ課題を提出する生活を送っていました。誰にも会えなかったことと、膨大な量の英語の資料を4科目分読んでレポートを書くような課題ばかりだったので、わかりやすく病みました(笑)

とにかくどれだけ資料に目を通しても入ってこなくなって、一日中ぼーっとして過ごすようになりました。この時期、私はやっぱり明らかに何かがおかしいと思い始めていました。

いろいろ調べるようになって、一番ピンと来たのが、ADHDでした。もう本当に当てはまりすぎて(笑)当時はやっと私の”なんか変” ”なんかしんどい”の正体がようやく解るような気がして安心したのを覚えています。

それはさておき、ぼーっとしていたので、単位が危うくなりました。やばいよ、というメールが先生からきて、ようやく私は危機感を覚え(何しろ単位を落とすと奨学金を全額返金しないといけないので)、実家に戻り、部屋に缶詰めで2週間、必死で頭を動かして課題をなんとか、もうボロボロになりながらやり終え、本当になんとか、単位を取りました。

それでも、あんなに夢見た留学が、4年かけてかなえた留学がこんなにもあっけなく終わってしまったことに、どこにも向けられない、なんと表現していいのかもわからない感情が渦巻いていました。

就活は、事情があって7月末ごろからようやくスタートできました。正直それまで、留学のことしか考えていなかったので、どうしていいかわからず、学校にも行けなかったので、自己分析、のようなものを自分なりにやって、自分で気になる企業に片っ端からエントリーシートを送りひたすら面接を受けるという、短絡的な就活をして、たった3か月弱ほどで終えてしまいました。

私の心の転機の一つは大学4年生の後半、LDS(ライフデザインスクール)に通ったことでした。就活を終え、4年生は一度も学校に行けないままだったので、このまま大学生活が終わってしまうのかと不安と焦りでいっぱいになったとき、ふと思い出したのが、このプログラムでした。自分の人生や自分自身と向き合い、未来をデザインしていくのを何人かの仲間と一緒に5か月間かけて行っていくオンラインプログラムです。3年生の時参加した海外インターンプログラムの経由で存在を知っていましたが、このタイミングで思い出したのは、必然だったかもしれません。

ですが、5ヶ月を終えて私はそのコミュニティから逃げるように距離を置きました。自分の本当の気持ちや、過去や、痛みと向き合う、ということは、簡単なことではなくて。何年も動かしていなかった身体を急に酷使すると壊れてしまうように、何年も蓋をして触れていなかった心の一部を急に、それも一気に開いて触れてしまったため、傷が開いてしまったような感覚でした。とても受け止め切れませんでした。

周りも巻き込み、心はジェットコースターのようで、そんなことを5ヶ月し続け、疲れ果ててしまったのでした。

あのとき出てきた感情や、思い出した痛みや、向き合った自身の弱さは、月日をかけなければ消化しきれないものでした。

誤解をしてほしくないので言っておくと、LDSに参加したこと自体は、私の人生にとって、私自身にとって、とても価値のある大事な時間だったと思っています。私のかけがえのない大切な人たちに出会えた場でもあるし、私に大切なことに向き合うきっかけをくれたから。

ただ、言ったように、すぐには切り替えられませんでした。

LDSでは、好きなことを仕事にすることこそが美しく、そういう人たちが輝いている。そういう人たちにスポットライトが当たる。そんな考え方が強くあるので、私もその思考がどうしても離れませんでした。


私が就いた3つの仕事、介護も、地域おこし協力隊も、学童保育も、全部、その時の私の全力で、全身全霊で向き合ったお仕事です。(働いた期間はちなみに5か月、7か月、8か月です笑 短っ笑)それでも、いつもどこか落ち着かなくて。私は何をしてるんだろう、このままでいいのかな、ここにいるべきなのかな、そんな思いがどこかに、いつもありました。辞めた理由はそれぞれ違いますが、そういう思いがありながら働いていたことも事実でした。




一昨年、適応障害になったとき、一度本当に苦しくて、息をしていることも嫌になっていた時期がありました。

ある日、薬を飲んでもどうしても眠れず、意識を持っていることが嫌でたまらなくなり、持っていた睡眠薬をたくさん飲んでしまったんです。本当に息ができなくなって、身体も動かなくなって、(強い薬じゃなかったので、本当に何ともなかったんですが)その瞬間は、死ぬ、と思いました。このまま死ぬのかなって。気づいたらベッドから転げ落ち、必死で部屋の入口まで這って出て、階段を崩れ落ちるように這い下りていました。
家族が救急車を呼ぶのがもうろうとした意識の中でもわかり、そんな大げさにしなくて大丈夫だよ、と伝えようとしましたが、話せませんでした。

結局、救急車で運ばれ、気づくと病院のベッドの上でした。すぐに薬は抜けて、身体も動いていたし、意識もはっきりしていましたが、自分がしてしまったことに動揺して、頭の中はキャパオーバーで、どう言い表していいかわからない気持ちになっていました。
先生が優しく話しかけてくれていたのを覚えていますが、何も答えられませんでした。どういうつもりだったの?しんどいことはなに?入院が必要だと思う?
最後の質問にだけ、大丈夫です。と答え、病院から帰り、またベッドに横になりました。

ここまで細かい話をしたのは、初めてです。でも、書いておくべきだと思いました。これが、私のまた一つの心の転機になった出来事だったからです。

病院のベッドの上で受け止めたことが三つありました。

ひとつは、私はまだ生きていたいと思っているということ。だから這ってでも下に降りようとした。

もう一つは、私の心は、こんな行動を起こしてしまうほど、限界に近いんだなということ。

そしてもう一つは、待合室で待ってくれている両親や、こんな私と友達でい続けてくれている友人たちの顔が浮かび、こんなこと、二度としちゃいけないと思ったこと。

大切な人を大切にできるように、ちゃんと自分のことを治していこう。大事にしていこう。そう強く思いました。

このことがあって、私はようやく、自分の身体や心と真剣に向き合っていくことになり、現在に繋がります。本当に遅かったと思います。でも、私にはこれだけの時間と、これだけの経験と、気持ちの整理が必要だったんだとも、思います。

ここまで読んでいる人、いるのかな。(笑)
まあいいや、続けます(笑)
まだ、続きます。




LDSにいたとき、最後に自分の願いについて、考える時間がありました。その時、はじめて“夢”のようなものを描きました。

一度はもういいやと見なかったことにしようとした夢ですが、いろんな経験をし、いろんな人と出会い、いろんな感情を経験し、今、結局その夢をまた、思い浮かべるようになりました。


それは、孤独な人、辛い思いをしている人、苦しんでる人、そういう過去があって、私みたいに乗り越えきれてない人、そういう人たちが、自分らしくいられて、心から信じられて、心からの笑顔でいられる、そういう居場所を作ること。

子どもが好きなので、子どもたちの居場所を、と当時は思っていましたが、今は大人、というか、どんな年齢の人にも、と思っています。

私が子どもが好きな理由のひとつは、子どもに昔の自分を重ねるからだと思います。

今こういうこと思ってるんだろうな
今こうしてほしいんだろうな
本当はこうしたいんだろうな

今辛かっただろうなぁ

そういう気持ちが、なんとなくわかる。そんなとき、抱きしめてあげたくなるんです。

わかるよ、大丈夫だよって。

昔の私がしてほしかったことを、してあげたくなる。

そしてそれは、私の大事な人たちにも。
辛いことがあったとき、苦しんでるとき、寂しいとき、悲しいとき、1人でいてほしくなくて、1人で我慢してほしくなくて。大丈夫って抱きしめてあげたくなります。

ただ、抱きしめるとか、私自身がされるのもするのも慣れてないからできないんですけど笑
できるようになりたいなーと思ってるところです笑

だから、どんな年齢の人でも、そういう居場所を求めている人のための居場所を作りたい。
自分自身を大事にできて、そこにいる人たちのことを大事にできて、一人ひとりが自分らしく、飾らないそのままの姿でいられて、のびのびと生きられるような場所。

そういうものを作りたいです。

作りたい、と言いつつ、私にそんな居場所はまだない気はします。し、まだ何にも始めていません笑 そんな状況で夢語って大丈夫かなって思うけど、今、私がそう思う気持ちを大切にしたいと思うから、書きました。


またこの夢を思い浮かべられるようになったのは、

長い時間をかけて、たくさんぶつかり、傷つけ合いながらも今はこういう私を理解し、助けようとしてくれる家族がいるから。

時間の長さは関係なく、こんな私を受け入れ、愛を与え続けてくれる愛してやまない友人たちがいるから。

他の誰かがなんと言おうと、私にとっては死ぬほど辛かったあの頃を、耐え抜き、生き抜いた自分がいるから。

ずっと私でいることが嫌で、なれるものなら他の誰かになりたいと切に願っていた私が、幸せを感じる瞬間が増え、私は私でいいと思える瞬間が増え、少しずつ自分自身の味方でいられるようになってきた、だから、大丈夫だって思えるからです。

今の私なら、叶えに行けるんじゃないかって思える夢があって。

今の私なら、前に進むことを楽しめるんじゃないかって思える今。

新しいスタートを切る一歩手前。

それが私の現在地。
やっと、ここまで来れた。


傷ついてボロボロになって、明日を迎えるのが怖くてしかたなかったあの頃の私に、伝えたいことがあります。

ありがとう。
今を、生き抜いてくれて、ありがとう。
あなたはこれからたくさんの素敵な人たちと出会い、たくさんの大好きな人たちができます。あなたを助けてくれる人たちとも出会います。
だから、大丈夫。1人じゃないからね。
私はこれから、ここからの私の人生を生きていきます。幸せになろうね。幸せでいようね。


最後に、ここまで読んでくれた人、いたら本当にそれこそ抱きしめに行きたいくらいです笑
教えてください笑

きっと、私の大切な人たちだと思うから。
そしてもしかしたら、この文章のどこかに、私の人生のどこかに、共鳴してくれた人だと思うから。

全ての人の幸せを心から願うなんて嘘くさいけど、せめて、これを読んでくれたあなたの幸せは心から願いたいです。

そして、辛いとき、苦しいとき、寂しいとき、1人で苦しまないでね。私がいるよ。

心からそう思います


2024/4/7





この記事が参加している募集

#自己紹介

230,124件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?