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感情論が必要だ【雑記】

「宗教」だとか「○○至上主義」といったレッテルを貼られるのは気分の良いものではない。誰もそんな風には思っていないのだから。自分は至ってまっとうな中道主義者であり、フラットに、論理的・合理的に思考しているのだと、誰しもが自己認識している。

もちろんこれほど実態とかけ離れている考え方はない。人は(僕自身も例外ではなく)、歩みを進めるほどに常識という名の見えない糸に雁字搦めにされていく。そして、紐の試練に搦めとられたカマキリやゲンボウのように、気づいたときには全く身動きが取れなくなるのだ(ワンピース28巻参照)。

さて、労働なるものがもはやカルト宗教と化していることは、僕も含め多くの論者が口をそろえているわけだが、しばしば労働至上主義者に見える人々からのカウンターを食らうことがある。アンチワーク陣営はそのカウンターをあざ笑い、さらにその反論を証拠として突きまわし、相手が無根拠なカルト宗教であることを見せつけようとする。もちろんこれらは徒労に終わる。重箱の隅の突き合いになるか、相手に無視されるかのどちらかだからだ。

レスバトルの果てに「なんてこった・・・あなたの言う通りだ! 私は間違っていた。申し訳ないが、あなたの言葉をメモに取りたいから、あらためて初めから説明してはくれないだろうか?」などという言葉がこれまで帰ってきたことは一度たりともない。それなのに僕たちは、まるでこうした反応が返ってくるかのようにレスバトルを行うのである。

では僕たちはどうすればいいのか? 意見が異なる者同士が分かり合うことを、相手の意見を改めようとすることをあきらめればいいのか? 他人は他人であり、自分は自分であって、自分が快適に生きるためのライフハック発掘に専念しておけばいいのか?

そうかもしれない。でも、その結果として訪れたのが「なるようになった今の世界」なのではないのか?

では、もし諦めないのだとすれば、歩み寄るためになにが必要なのだろうか?

間違っても、自説に都合のいい証拠や相手に都合の悪い証拠を血眼になってかき集めることではないだろう。それはもしかすると必要なのかもしれないが、論理的な重量物を相手にぶつけようとしたところで結果は同じである。

おそらく、ここで大切になってくるのは感情論ではないだろうか?

それは、文字通りの感情論である。自分はこの主張を通じてなにを成し遂げたいのか? 相手はその反論でなにを守りたいのか? あらゆる理論は感情のしもべであって、その逆ではない。そして、理論と理論は出会い頭にケンカしがちであるが、感情同士が相対したときは礼節をもって世間話に発展することの方が多い。

火花を散らし合っている理論のもととなる感情は、実はまったく同じものであるというケースは少なくない。たとえばベーシックインカムを導入すべきか、そうでないかについてレスバトルする人は後を絶たない。そしてそれぞれの論者は相手を「日本を不幸と混乱のどん底に陥れようとする悪魔」であるかのように罵り合う。しかし、実際のところどちらの論者も日本を不幸と混乱のどん底にたたき落とすことを望んでなどいない。レスバトルの相手も含めて、日本人全員が幸福になることを望んでいるのである。

もちろん、各人が思い描く幸福へのロードマップは千差万別であって、お互いの感情を知ったところで議論が終わるわけではない。それでも、目的が一致していると分かれば、少なくとも罵り合う必要がないことは理解されるのではないだろうか?

感情をさらけ出した相手に暴言を浴びせることはむずかしい。まずは感情をさらけ出してみようと思う。僕がさらけ出せば相手もきっとさらけ出してくれる。そうなれば本当の意味で論理的な議論が始まるのではないだろうか。


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