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金のことを忘れて、社会を考えよう

「収入は能力や貢献度で決まる」というピュアピュアな実力主義幻想が未だに跋扈しているわけだが、もちろんそんなわけがない。

先祖代々の土地を受け継いだだけの世間知らずな大金持ちもいれば、威張り散らして莫大な報酬を受け取るポンコツ社長もいる。僕のおばあちゃんは認知症で老人ホームに入っているが、僕のおじいちゃんが経営する会社の役員報酬を毎月受け取っている(金額はフルタイム労働する僕の収入の倍くらい)。

収入のほとんどはポジションで決まる。これは疑いようがない。もちろん、能力や貢献度も多少は反映されているだろうが、ごくわずかな影響しか与えていない(そもそも能力や貢献度を正確に数値化することはできないわけだが、そう考えて問題ないと思う)。

「スキルの希少価値で決まる」という考え方も一理ある。しかしこれは正確ではない。「ポジションの希少価値で決まる」の方が現実に即しているように見える。上場企業の社長と同じだけのスキルを得るのはそんなに難しくないように思えるけれど、上場企業の社長というポジションを得るのはとんでもなく難しい。

何かに役に立つ貢献をしたか、有益なスキルを持っているから、上場企業の社長の椅子に収まったとは言い切れない。上役と一緒にゴルフを回ったとか、セクキャバで同じ女性のおっぱいを吸ったとか、そういう要因の方が明らかに大きい。当たり前だが、これはスキルや貢献とは何の関係もない。

要は椅子取りゲームだ。椅子を取る能力と、だれかに貢献する能力を混同してはいけない。繰り返すが、たまたま金持ちの家に生まれたり、おっぱいをチュパチュパ吸ったりすれば、椅子は取れるのだ。

椅子に座れば、自動的に金が振り込まれる。僕もサラリーマンという椅子に座っているから、会社の給料という一定の不労所得を得ている。そして、それを使ってスーパーやコンビニでサプライチェーン上のたくさんの誰かを搾取しているわけだ。

金は、他人から搾取する権力が数値化されたもの。当たり前だけれども搾取する対象がいなければ、クソの役にも立たない。

金持ちは貢献する代わりに、おっぱいを吸って高収入を得ているわけだから、搾取する権力(=お金)を誰かから搾取しているわけだ。搾取する構造が固定化され、それをイデオロギーで正当化している社会。これは身分社会と言っていいだろう。ネオリベの権化である福沢諭吉は身分制が崩壊して実力主義が始まったような誤った印象を広めたわけだが、そこにあったのは新しい身分制で、それは現代まで何も変わらない。

ならば「俺は稼いでいる!」「納税している!」とイキるのは、どれだけダサいことかわかるだろう。イキりは実力主義を前提としなければ成り立たないわけだが、イキっている人は認知症のぼくのおばあちゃんより収入が少なかったりする。

お金のことは一回度外視して、社会を考えてもいいのではないだろうか? 誰が価値あるサービスを提供しているのかを考えれば、最も収入の低い人たちだということが明らかなわけだ。ならば、お金とは価値や貢献とは関係がない、単なる権力ゲームのツールに過ぎない。こんなものをありがたがってどうする?

金ってのは腹の足しになるのかい?

僕たちはサンジから何を学ぶべきだろうか。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!