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ふるさと納税とかいうデスゲームを許すな

神戸市はふるさと納税のせいで赤字が出ていると、ニュースでやっていた。それは当然のことだと僕は思った。自分の住む自治体にふるさと納税できない(それはただの納税)以上、都市圏はあれよあれよといううちに身包みを剥がされる運命を避けられない。必然的に都市圏が不利なシステムなのだ。

赤字を埋めるためには、神戸市も魅力的な返礼品を用意して、他府県から税収を奪わなければならない(もちろんここでいう他府県とは、暗黙のうちに大都市圏が想定されていて、当然、神戸市に税収を奪われたその大都市圏も他の大都市圏からの奪わなければならず‥)。

そこで神戸市は、大学の授業の一環として大学生からアイデアを借りて、返礼品の商品化を進めているらしい。

上手いやり方だと思う。大学生なら、外部の胡散臭いコンサルやマーケティング会社に大金を支払うことなく、タダでこき使える上に、「産学連携に取り組む自治体」というイメージも発信できる。

さて、こういう神戸市のような創意工夫は、テレビでは肯定的に捉えられている。SDGsの理念と共鳴するような持続可能な商品を返礼品として用意することで、若いアイデアを社会に還元する素晴らしい取り組み‥というわけだ。

だが、僕はかねがねより「アンチふるさと納税」というポジションをとっている。そもそもふるさと納税というシステム自体が、SMじみているからだ。

争い合う自治体のトータルの税収は変わらないのに、それでいて広報や返礼品のコストで税収は減っていく。要はやればやるだけみんなが損をするジリ貧のゼロサムゲームだ。

もし、税収が不足する自治体があるなら、地方交付税でカバーすれば良い。そうすれば膨大なコストが無駄にならずに済む。それなのにふるさと納税というゲームに強制的に参加させるのは「税収が欲しければ他府県から奪え」「ほれほれマーケティング戦略で稼ぎないと、税収なくなっちゃうよ?」というサディズム的な日本政府による調教なのだ。さながら一昔前に流行ったデスゲームである。

これほどに不合理で非効率なシステムが、白々しくも存在するのはなぜか?

新自由主義が一役買っているのは間違いない。単に地方に金をやるのは、生活保護受給者に金をやるのと同様に、「甘え」を生むだけ。甘えさせないためには、何かをさせなければならない。パン食い競争をさせるわけにもいかない。ならば、マーケティング合戦でもやらせて、これからの時代に必要なマーケティング感覚を身につけさせよう‥というわけだ。

もはや地方は、米を育てて売っていても生きていけない時代になった。なぜなら植民地(発展途上国)からの搾取と大量生産によって、生活必需品の値段が下がってしまったからだ。

そうなるともう、観光地化するか、ブランド化するか、SDGs化するかして、消費者からぼったくらなければならない。もはや僕たちの生活費は、生活必需品を生産する人の元に届かず、金融機関や株主、ややこしい肩書きの経営者などのピンハネ業者に吸いあげられている。吸い上げられることを拒否するには刑務所に入るか、山奥ニートになるしかない。つまり、大手を振って町を歩くためには、観光地化するか、ブランド化するか、SDGs化するしかない。

つまり、地方自治体が税収を確保するには、そこに暮らす人々が、そういうマーケティング手法を駆使して消費者を騙くらかす必要がある。全くもって馬鹿馬鹿しい限りだ。地球の端っこまでコンクリートで埋め尽くし、フロンティアを失った人類が、SDGsとか、ブランドとか、体験価値とか、メタバースとか、NFTとか言って、フロンティアを創り出そうと必死になっている。

ふるさと納税とは、僕たちがそういう欠陥まみれの経済システムに支配されたディストピアに暮らしていることを認識させ、さらなるデスゲームへと陥らせるような仕組みだ。要するに僕たちは、鉄骨を渡りながら限定じゃんけんさせられている(カイジって面白いよね)。

たしかに個人の観点からすれば、ふるさと納税を活用すれば得しているように見える。「俺は嫌な思いしていないし」の精神だ。それはそれで別に否定されるようなことでもないけど、そういう精神の持ち主ばかりが得するような仕組みは、果たして有健全だろうか?

ふるさと納税は愚策中の愚策。そもそも地方に還元したい人の気持ちを汲み取りたいなら(少なくともふるさと納税を活用する人の中にはほとんどいない)、寄付を後押しする仕組みをつくればいい。

ふるさと納税をさっさとなくせ。日本政府に言いたいことはたくさんあるが、まずはそこからだ。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!