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クロポトキン『相互扶助論』を読んで

クロポトキンという人は、19世紀から20世紀初頭を生きたロシアのアナーキストらしい。この本が出版されたのは1902年。かなり古いが、クロポトキンがこの本で鳴らした警鐘はこの100年間無視され、クロポトキンが抱えていた問題意識は、まったく改善されていないどころか、むしろ問題を悪化させる方向に歴史が動いてきたようにも見える。

つまり、僕の手元にあるのは、時空を超えた「未だ果たされていない人類への約束」というわけだ。それを僕が受け取って、社会生活に反映させていくのだ。ロマンを感じるではないか。

クロポトキンの問題意識とは?

ずばり「相互扶助、足りてなくない?」ということだ。「相互扶助」とは、現代社会に生きる我々からすれば、口うるさい町内会のおばちゃんをイメージさせる言葉だ。

ほっといてくれよ。町内の掃除なんか、業者にやらせればいいだろ。誰かが喧嘩している? さっさと警察を呼べよ。醤油貸して欲しい? 自分で買えよ。病気になった? 保険や貯金を準備していない奴が悪いんだろ? 道路が割れている? 役所は何をやっているんだ?

多少の違いはあれども、現代人であれば、概ねこのような考え方に染まっているのではないだろうか。少なくとも、自分のことは、自分のお金で解決するべきで、みんなのことは国が税金で何とかして欲しいと考えているのは、大抵一致していると思う。

家族間や友達間に限れば助け合うこともあるが、あくまで経済的自立を前提としており、過度な救済は本人のためにならないということになっている。それに、核家族化が進み、離婚率が高まっている日本では、そのネットワークすら縮小している。

クロポトキンの時代も、その危機感はあったのだろうが、人類はその傾向をさらに加速させてきた。もしかすると僕たちは、人類史上、もっとも相互扶助から遠ざかっているのかもしれない。

しかし、これはとても不自然な状態で、とうてい健全な人間の姿ではないとクロポトキンは言う。なぜなら…


相互扶助は、生物の本能

「人間の本能」ですらない。生物全般の本能なのだ。クロポトキンによれば「相互扶助」という思考回路は、生物が進化していく過程で、身につけざるを得ない道徳であるという。

「利己的な遺伝子」とか「適者生存」とか、進化論に関するキーワードは、どうにも「弱肉強食」をイメージさせる言葉が多い。てっきり僕たちは自然界では、同類であれども信頼できず、それぞれの家族が孤独に命を狙い合う殺伐とした世界だと思っている。しかし、そうではないとクロポトキンは指摘する。

実験室や博物館の中ばかりではなく、さらに森や野や草原や山岳にはいって動物を研究すれば、ただちにわれわれは次のごとき事実を見るのである。すなわち無数の闘争と殺戮とが動物の種々なる種の間、ことに種々なる綱の間に行われつつあるとともに、同様にもしくはそれ以上に、相互扶助、相互防護が同一種のあるいは少なくとも同一社会の動物間に行われている。

確かに、闘争や殺戮も起きている。しかし、それ以上に相互扶助は普遍的かつ支配的な現象であると言うのだ。

さらに続けて…

「絶えず互いに闘争するものと、互いに扶助するものとの、いずれが最適者なりや」という問を自然に向かって発するならば、われわれはただちに、相互扶助の習慣を持っている動物が正しく最適者であることを知るのである。

そして、蟻の集団が、相互扶助の原則のもと、とんでもなく堅牢な巣をつくり、が巨大な敵を打ち負かす事例や、種を超えて連携し合う鳥類たちの事例、一見個人主義に見えるリスや猛禽類、猫がチームワークを発揮する事例など、膨大な証拠を提示してくれる。

生物学者たちの観察によれば、相互扶助が進化していくごとに、だんだん臨機応変で複雑な対応も可能にしていき、怪我人を助ける傾向を高めていき、普段のコミュニケーション(じゃれあったり、歌を歌ったり)を重視していくとのこと。

考えてみれば、当たり前かもしれない。お互いを信頼できず、殺し合っている種族なんて、地球の歴史の中で早急に滅びてしまいそうだ。一方で、協力し合っている方が、はるかに長生きしそうな気がする。結論…

「競争してはいけない。競争は常に種に有害なものである。そしてそれを避ける方法は幾らでもあるのだ。」これが自然界の傾向である。

…ということになる。


あれ、人類は?

戦争の20世紀を経て、仮初の平和が訪れたと思えば、生き残りをかけてビジネス界では数多の策略と陰謀が張り巡らされ、ライバル企業から一歩先んじようと切磋琢磨し、利益を独占するために必死に特許を申請している。一方、会社内では出世競争が行われ、学校では子供達が、将来美味しい椅子に座るために、受験レースを繰り広げている。助け合うどころか、財布の紐を固く締めて財産を失わないように右往左往し、飢えた貧乏人には自己責任論を押し付ける。

人類は、自然界の例外なのだろうか? 例外であるがゆえに、ここまで進歩を続けてきたのだろうか?

クロポトキン曰く、そうではない。人類はずっと、相互扶助の基盤の上で生活してきたのだ。


原始人の相互扶助

ここで、人類学の出番だ。ヨーロッパが接触したばかりのエスキモーやブッシュマン、パプア人、フィジー人の例が出されて、いずれも、相互扶助や贈与に基づいた社会が形成されているという。

そして、観察したヨーロッパ人はこのように感じる。

初めて原始的種族と会った時には、ヨーロッパ人は彼等の生活を嘲笑うのが常である。しかし、聡明な人が長い間彼等の中に止まっていれば、大抵は彼等を地球上の「もっとも親切なもの」もしくは「もっとも温和なもの」というのだ。

つまり、「地球一の親切」が、そこら中で観察されているのだ。翻って考えれば、観察している人たちの文化が「地球一不親切」というだけなのではないかと勘ぐってしまう。

原始人は助け合う。殺人や暴力が起きることのないよう、徹底的に配慮し、習慣や文化、迷信を生み出す。殺人も起きることはあるが、たいてい村の掟とそれぞれのとりもちで処理され、巨大ないざこざに発展することは稀とのことだ。

もちろん原始人社会はユートピアではない。その証拠に、老人殺しや赤子殺し、カニバリズムの文化も随所で発見されている。しかしこれらは、無思考の暴力性の証拠ではないという。

彼らは、自分たちの暮らす世界が有限であると知っていた。そのため、食料が足りない時には、足手まといになる老人は自ら死を願う。また、同じく足手まといかつ食い扶持になる子供の数をコントロールしようと、止むを得ず親が子供を殺すこともあったと言う。カニバリズムも、タンパク質不足の状況に対する適応であって、頻繁であったわけではない。

つまり、世界の厳しさに抗えない場合に限り、集団全てが滅びるくらいならば尻尾を切るというあくまで合理的な選択だ。

そして彼らは権力を毛嫌いする。富の蓄積が権力をうみ、それが共同体を破壊することを知っていて、それを防ぐために分配のシステムを拵える。徹底的な平等主義が、彼らの特徴だ。

このように、人類の初期段階においては、明らかに平等な相互扶助のシステムが主流だったらしい。じゃあ、ここから人類は、どのように変わっていくのだろうか?


狩猟採集から、村落共同体へ

領土という概念、家族の独立、世襲の文化が生まれた。限られた範囲で、「私有財産的なもの」が生まれてきた。この経緯はクロポトキンいわく、「地球の乾燥化」にあったという。

これまで食料が豊富にあったジャングルが乾燥し、そこで暮らしていた人々が移住せざるを得なくなる。その先で暮らす人々にとっては自分たちの生存を脅かされることになるため、争いが起きたり、起きなかったりする。

要するに、定住する必要に迫られたということだ。そして、定住するために荒地を切り開いて、新天地を得るために人はまた協力した

何等の道具をも持たない、弱い孤立した家族では、とうてい、この征服はできない。かえってこの荒野のために圧倒されてしまったに違いない。ただひとり村落共同体のみが、その共同の労働によって、無人の大森林と、深く埋って行く沼地と、果てしもない大草原とを能く克服することができたのだ。

道路をつくり、森を管理し、荒野を農地に変え、敵の襲来に備えて囲いを作る。そんな作業はみんなで協力しなければできない。

もちろん当時は警察も、裁判所もなかったから、治安維持もトラブルに対する処置も自分たちで考えながら実践していった。そんな試行錯誤の中、人々によって徐々に形作られた「民会」というシステムは、神聖なものとなり、それに逆らうことは考えつくことすらない、空気のようなものになっていく。

だが民会は、誰か1人が牛耳る組織ではなく、あくまで平等主義に基づいたものだったようだ。むしろ、そのようなヒエラルキーこそが、あらゆるトラブルの元だと考えられ、可能な限り平等を維持するために、民会が組織されていたらしい。

驚くことに、村落共同体が領主によって支配された後においても、領主は民会に逆らえなかったという。よっぽど、今より民主主義なのかもしれない。

村落共同体は、助け合いの世界だ。農地は共同でみんなで耕し、外からきた旅人は親切にもてなし、鍛治仕事ができる職人は無償で奉仕した。

まだ、人類は相互扶助の価値観で生きている


中世の自由都市へ

中世ヨーロッパの自由都市は、領主の武力が、外来のモンゴル人やアラビア人の侵入に対してあまりにも無力だったことから、「あ、やっぱ俺たち自衛します」ということで、始まったようだ。

この中で人々は、村落共同体のイズムを受け継ぎつつ、新しい自由を謳歌した。

村落共同体との違いは、職業が多様化していったことだろう。そして、ギルドと呼ばれる様々な職人の組合が自然発生していき、幾層にも重なる相互扶助のシステムが生まれた。

相変わらず人々は自治していた

年の権力が商人もしくは貴族の寡頭政治に簒奪された場合にも、その都市の内的生命と日常生活における民主主義とは消滅しなかった。彼らはいわゆる国家の政治的形式にはほとんど依頼しなかった。

ここでも、独占やヒエラルキーが発生しないように、様々な工夫がなされていた。商売についての厳格なルールや、裁判、助け合いの精神などだ。

そして、そこでは新しい傾向が見られた。自由都市とは‥

村落共同体におけるよりも大きな規模の上に、相互扶助と相互支持とのために、消費と生産のための、そしてまた全社会生活のための緊密な団結を組織して、しかも同時に人々の上に国家の桎梏を課するこたなしに、芸術や、手工や、科学や、商業などにおける個人の各団体と政治団体との創造的天稟に十分な表現の自由を与えようとする企てであったのだ。

独立した個人が、それぞれ自由に創意工夫して、イノベーションを起こす世界。なんだか、楽しそうだ。実際「仕事は楽しまらければならない」というルールもあったらしい。

驚くべきことにクロポトキンは、科学の大発明はほぼこの時代にルーツがあると指摘している。羊皮紙も、火薬も、時計も、望遠鏡も、羅針盤も、十進数も、化学もそうらしい。

むしろ、近代に入って、科学やテクノロジーは停滞したとまで指摘している。事実、中世であればジェームズワットのアイデアを実現できる職人がそこら中にいたというのに、近代ではほとんどおらず職人探しに20年を費やしたらしい。停滞の中世、進歩の近代というイメージとは真逆だ。


忍び寄る、権力の影

なぜ、この自由都市は崩壊したのか? 原因は一概には言えないだろうが、やはり権力のつけ入る隙を与えてしまったという理由だろう。

武人が影響力を増したり、新入りを差別するなどヒエラルキーを生み出したり、商人が特権階級化しはじめたり、様々な要因が重なり、国家権力という悪魔がやってきたわけだ。

そして、中央集権の国家こそが、平和と繁栄をもたらすことができるという新しい宗教が誕生する。そして‥

人間の権力についてのかくのごとき新しい信仰を得てからは、旧い連合主義的思想は消え失せて、民衆の創造的天稟までも死んでしまった。

ついには‥

市民等は政府を信用するのあまり、自分自身を信用しなくなった。自らその行くべき新しい道を見出すことができなくなった。国家は、さらに一歩を進めさえすれば、市民の最後の自由までも蹂躙することができたのだ。

こうなってしまえば、近代、現代の、この有様にたどり着くまで、そう時間はかからなかった。

かくして今日では、人は他人の欲望の如何にかかわらず自己の幸福を求めることができまた求めなければならぬものであるという理論が、どこでも、法律にでも、科学にでも、宗教にでも、勝利を収めている。これが今日の宗教である。


もしかして僕たち、洗脳されている?

クロポトキンの目線で歴史を見つめると、世界が全く異なって見える。

これまでは近代資本主義こそが進歩のシンボルだと思っていた。しかし、停滞の時代だと思っていた中世の方が、個人の創意工夫に満ち溢れた進歩的な時代だった。僕たちは自由と民主主義を享受していると教わっているが、どうにも中世の人たちの方が自由で民主的に見える。

国家があらゆる公共サービスを提供するのが最も効率的だと思っていたが、歴史の大部分ではまるで国家は邪魔者扱いだ。自分たちで協力して全てを決めている人たちの方が、生き生きとしている。

相互扶助という本能を抑え込まれ、国家や通貨がなければなにもできない弱い個人に分断されて生きる僕たち。まるでディストピア小説に出てくるような、飼い慣らされた家畜じゃないか

クロポトキンは、まだ相互扶助は生きていると言った。確かに現代でも、日常レベルには存在する。しかし、これほどまでに個人主義が進み切ったいま、相互扶助の世界を取り戻すことはできるのだろうか。


目指すは空気を読まない相互扶助

ここまで相互扶助を褒め称えてきたが、僕は集団行動が苦手だ。飲み会もよく断るし、人からの電話も基本的に無視するし、家族旅行にも1人だけ参加しないことが多かった。10年間全く親戚に合わない時期もあったし、葬式や墓参りもスルーしているし、相互扶助には全く適さない人間かもしれない。

しかし一方で、仕事は真面目にやる。引っ越しを手伝ってくれと言われれば、割と真面目にやる。みんなサボっている掃除も真面目にやる。貢献することは好きなのだ。

でも、空気を押し付けられるのが嫌なのだ。つまり僕が求めるのは、個人を強制することなく、助け合える仕組みだ。

実際、多くの人が相互扶助という言葉にネガティブなイメージがあるのは、空気を読む文化のせいだろう。すっきりとなんでも言えて、個人が尊重される関係なら、嫌ではない。むしろ楽しい。参考になるのは中世の自由都市だろう。

当時よりも、テクノロジーは発展した。インターネットもある。新しい相互扶助でできることは、中世とは比べ物にはならないはずだ。

もっと前へ進めば、きっと今の時代は人類にとっての黒歴史になるだろう。前へ進めなければ、このまま滅ぶしかないだろう。あぁ、人類の一員として、なにをしようか。

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