トロッコ問題を引き起こしているのは「金」【雑記】
トロッコ問題のような思考方法は、現実世界でたびたび目にする。たとえば高齢者の終末医療に使われる莫大な医療費があれば、子ども5人が救える・・・みたいな話である。
多くの人はトロッコ問題において5人を助けるか、1人を助けるか苦悶する。考えに考え抜いて1人を切り捨てる人もいるが、それでも一度苦悶することは確実である。要するにこれは、人々が「できることなら6人全員助けたい」とか「できることなら6人全員助けるべき」と考えている証拠であろう。
なら僕は思うのだ。「全員助ければいいではないか?」と。
現実的にはトロッコ問題のように究極的な二者択一のシチュエーションは稀である。多くの場合、高齢者の終末医療もやりつつ、子どもも救うという選択肢は、物理的には可能であろう。
しかし、僕たちは可能であるとは思っていない。自分たちが暴走するトロッコのレバーの前にいるかのような錯覚を抱いているのである。それはおそらく「金」がそう錯覚させているのだろう。
「全員助ければいいではないか?」という疑問を投げかけたとき、多くの人はこう答える。「いや、リソースが限られているから無理だ」と。ここで言う「リソース」とは現実的な資源を指す場合もあるが、ほとんどの場合「金」を指す。要するに、「金が足りないから無理だ。どちらかを切り捨てなければならない」と言っているのである。
ここで注目に値するのは、多くの人が「できることなら6人全員助けたい」と考えている事実である。もし現実的な資源が不足しておらず、不足しているのが金だけなのであれば、一旦そこにかかわる人たちが金のことを度外視すれば、いとも簡単に6人を救うことができるだろう。
残念ながら多くの人は金を度外視することができない。金は限られたリソースであり、むやみやたらに放蕩することもできないし、金を受け取らずに活動していたならいつか路頭に迷う。だから、人々は、助けたいと思っていても助けられないトロッコ問題の沼にハマるのである。
しかし、よくよく考えれば不足しているのは金であり、現実的なリソースではない。現実的なリソースが潤沢にあるのなら、二者択一に悩む必要はなく両方を救うことができる。つまり、多くの場合でトロッコ問題を引き起こしているのは「金」なのである。「金」はあたかも本来、不足していないはずの現実的なリソースが不足していて、誰かを切り捨てなければならないかのような錯覚を与える。
となると、金さえ潤沢にあるのであれば、トロッコ問題は解決するのではないか? 要するに、金をばらまけばいいのではないか? 医療にも、教育にも、インフラにも、ベーシックインカムでも、なんでもかんでもばらまいてみればいいのではないか?
歴史上、金を生みだして、湯水のごとく戦争に注ぎ込んでインフレを起こした国家は数あれど、金を国民生活の向上のために湯水のごとく注ぎ込んでインフレを起こした国家は見たことがない。戦争は生産設備の破壊を伴うし、人員の不足も生じさせる。ならばインフレが起こるのは当然である。しかし、国民生活のために湯水のごとく金を注ぎ込むことによるインフレが生じるのかは定かではない。おそらく致命的なレベルでは生じないように思う(知らんけど)。
金の問題を度外視できるなら、できることは山ほどある。可能性は大きく広がる。金のせいで僕たちは「ああでもない、こうでもない」と議論を繰り広げているのだ。もう金のことなんて考えずに、生きていきたいのである。そうすればなにもかもが上手くいく気がするのだ(知らんけど)。
「金」によって半ば強制的に他者の働きを引き出そうとする社会システムには限界がある。そのような社会において、人の創造力やモチベーションはギリギリまで出し惜しみされなければならなくなるからだ。しかし、自発的な人のモチベーションには無限の可能性が秘められている。出し惜しみする必要もない。やりたいだけやればいい。6人とも助ければいいのだ。
※この記事は、江草さんがトロッコ問題について考えていたのに触発されて書いた(ぜんぜん別の角度から書いたわけだが)。いつもネタをありがとうございます。