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父親になんて、なりたくない

最も好きな映画を挙げるのは難しいけれど、最も嫌いな映画なら即答できる。

『ガール・イン・ザ・ベースメント』という映画だ。

後味悪いというか、胸糞悪いというか、とにかく観終わった後は最悪の気分になった。

だからこの記事も閲覧注意ということにしておこう。ここから先は自己責任ということで。





この映画はフリッツル事件と呼ばれる実話をベースに作られたらしい。知らない人は調べて欲しいのだが、実の娘を地下室に監禁する事件だ。

鑑賞する前の僕は「あーはいはい、ヤバいやつが監禁する系の映画ね」という気分だった。要は舐めていた。似たような設定で『PET』という映画を観たことがあったので、衝撃的な映画を観る心構えをしていなかったのだ。

ところが実際のところ、人生最悪の映画体験になった。

父親が娘を監禁する。そこまでは良い(良くないが)。ただ、その期間が20年に及ぶ。しかも、その間近親相姦を繰り返し、4人の子どもが産まれ、子どもたちは1度も陽の光を浴びることなく成長していくのだ。

父親は家父長制を煮詰めに煮詰めたような人物で、娘が自分の思い通りにならないのが我慢ならず、監禁という結論に至った。そして、薄暗い地下室という自分の掌の上で、狂気じみた家族ごっこを繰り広げたのだ。

監禁された娘は初めはもちろん精神的にボロボロだった。しかし、母親となってしまった以上、子どもたちを守るためにずっと健気に戦い続けるのだ。

ひとりで孤独に耐え忍ぶという話なら、単なる悲劇だ。だが、父親にレイプされてできた子どもたちは悲劇の結晶でありながらも、その暮らしには幸せがあって、紛れもなく愛があるのだ。

とにかく感情の整理が追いつかない。心の奥底にある小部屋を、粗雑な手でぐっと掴まれ、無秩序に荒らされたような不快感。嫌悪も、悲劇も、愛すらも、そこら中に散らばり、踏みにじられるような不快感だ。

この映画を観た後は、実際のフリッツル事件について調べずにはいられない。

そして知る。事実は小説よりも奇なり。実際の子どもの数は4人ではなく7人で、しかも監禁期間は20年ではなく24年だったらしい。

僕がこの映画を観て恐怖してしまう理由は、イカれた父親が、どこにでもいそうな父親だという点だ。自由奔放な子どもをコントロールしようとする欲求は、少なからずどんな親でも持っているはずで、監禁する前の人物描写が「たまにこういう口うるさい親っているよな」というレベルだった。

自分がそうはならないと、なぜ言い切れるだろうか?

嫌がる子どもを風呂に入れることと、このイカれた父親の行動はグラデーションで繋がっている。いつか自分もそうなってしまうのではないだろうか?

そんなリスクを背負うくらいなら、父親になんて、なりたくない。そう思わせられるくらいに、この映画にはリアリティがあったのだ。

いやぁ、不快だ。マジで早く忘れたい。でんぢゃらすじーさんのことでも考えるわ。


さて、全く違った角度から、意識低い系ヴィーガンの目線からこの映画にコメントするなら、次のようなものになる。

家畜たちの暮らしは、この映画で描かれた暮らしよりも酷いのではないだろうか?

監禁された彼女は、30㎠ほどのスペースは与えられていた。それに、彼女は曲がりなりにも子どもと共に暮らすことはできた。テレビや本は与えられた。

これはもちろん、間違いなく悲惨だ。それでも家畜は、陽の光が当たらない薄暗い小屋で、振り返ることすら許されないスペースで、レイプされ続けたり、牛乳を搾られたり、苦痛に耐えながら卵を産まされたりしている。しかも、糞尿に塗れながら生きる上、家族と共に過ごすこともないし、もちろん、脱出の希望などありはしない。

自分が口にする食事のせいで、家畜たちをフリッツル事件よりも酷い環境に追いやっている。そう思うと、やっぱり工場畜産の肉には抵抗感を覚える。

だからこの事件がマシって話ではもちろんなくて、こういう悲劇は人間にも家畜にも起きてほしくないなぁと思う次第だ。

なぜ人はこういう悲劇に手を染めるのか? そういう話はルドガー・ブレグマンの『humankind』という本に書いてあるわけだが、長くなるのでやめておこう。

とにかくこの映画のことを書けてよかった。僕はたいてい忘れるために文章を書く。文章を書くと忘れられる。

綺麗さっぱり忘れて、でんぢゃらすじーさんのことでも考えるわ。

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