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多くの日本人のブルシットジョブ論がいつも微妙にズレているのはなぜか?

「そうそう無意味な仕事多いよねー、ウチの会社も1円にもならないような無意味な会議や資料づくりばかりで‥」

ブルシットジョブについて話すと出てくるこのセリフは、微妙にブルシットジョブ論からズレていて、僕はいつも歯がゆい想いだ。

恐らく、ブルシットジョブ論がいう「無意味」と、この人が言う「無意味」は違う。

この人のいう「無意味な仕事」とは、会社が金銭的な利益を得ることに直結しない仕事を意味しているように見える。逆に言えば、会社が金銭的な利益さえ得られるなら、それは意味のある仕事とみなされる。例えそれが、助成金獲得の方法を耳打ちすることでその一部を掠め取るコンサル仕事だったとしても。

この辺りにブルシットジョブ論を提唱したデヴィッド・グレーバー(アメリカ人)と、我々日本人との感覚の乖離の原因がある。我々日本人は会社と自分を同一視し、「会社が儲かる=意味のある仕事」とみなす傾向がある。

一方でグレーバーが考える意味とは「誰かの役に立っているかどうか?」であった。金にならなくても、公園の掃除をすることは、意味のあることになる。

ただし「役に立つ」という言葉も注意が必要だ。我々はすぐに金持ちの資産ポートフォリオについてアドバイスする仕事も、役に立っていると考える傾向にある。そういうことではない。

金の存在を一旦度外視して、人々の健康や福祉にとって役に立っているかどうかが重要なのだ。

もちろん「お給料がもらえるなら意味がある(例えそれが穴を掘って埋める仕事でも)」という感覚は、アメリカ人にも日本人にも存在する。

だから「ブルシットジョブ? 生活のためなんやから、別にええやろ?」という反論は、どの国でもあり得る。

しかし、ブルシットジョブ理論が問うているのは「なぜ、生活のための仕事がブルシットであるということがあり得るのか?」だ。

常識的に考えれば、社会の役に立った分だけ給料が得られなければおかしい。完璧にそうなることはないものの、概ねそうなっているべきだ。お金とはそういうものだと僕たちは教わってきたのだから。

しかし、ブルシットジョブ理論によれば、実際に起きているのは役に立たない仕事の方が高い給料が得られる真逆の現象だ。

順当に考えれば、これは社会構造がイカれていると考えざるを得ない。

残念ながら、多くの日本人はその議論の大海に乗り出すことなく、「あの人の仕事は会社の利益につながらないのに、なぜあの人は高い給料を持って帰るのか?」と、単なる社内政治の問題に矮小化される。結局「もっと実力主義を!」という金太郎飴のような処方箋が提供される。

あるいは、「お金をもらっているということは、役に立っている。なぜなら、お金とは役に立ったことの証左なのだから」という神をも恐れぬ循環論法に固執する。37%から40%の人々が「自分の仕事は無意味だ」と発言しているにもかかわらず。

ブルシットジョブ論が意図するところは、社会構造に揺さぶりをかけることであった。故グレーバーの意志を継ぐならば、社会構造の不条理さと無意味さを追及し、より良い社会へと変革するための議論を巻き起こさなければならない。

グレーバーは、反権威主義者たちの権威だ。僕も反権威主義者としては、グレーバーの権威を崇め奉り、その意志を受け継ぎたい。

僕は声を大にして言いたい。社会構造がイカれていると。もちろん、僕は、歴史が進歩すれば神の如き完璧さを備えた社会構造が生まれるなどというヘーゲルやサルトルのような主張を繰り返すつもりはない。普遍的な社会構造などありはしないが、より良い社会構造ならあり得る。

社会構造というのは、多くの人々の幸福に貢献するべく生み出されるべきものだ。毛沢東やスターリンが設計すると失敗する。多くの議論を経て、人々の手で社会構造をDIYしていけるといい。

もちろんこれはむずかしい。僕にできることは少ない。なんだかんだ言って僕はブルシットジョブを器用にこなすことができる。ブルシットジョブとは考えようによっては不労所得の源だ。

それでいいっちゃいい。だがやっぱ気持ち悪い。

だから僕がブルシットジョブ論の正統な継承者になるのだ。異端者は火炙りにしてやんよ。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!