運転そのものが危険なのだから、安全運転など存在しない

きのう、車を運転させられた。死にたくなかった。

僕は右折タイミングを逃したり、駐車場であてもなく右往左往したり、制限速度を守り続けたり、「煽られ運転」の名手だが、きのうは煽られなかった。

飛び出してくる子どもにも、賠償金狙いの当たられ屋にも、居眠り運転の老人にも、自殺志願者のイカれたドライバーにも遭遇しなかった。

結果、無事に済んだ。

しかし、僕はこれは運良く得た僥倖に過ぎないことを知っている。隣を走るタクシーがほんの少しアクセルを踏み込むだけで、あるいは後続のトラックがブレーキを踏み間違えるだけで、僕たちは死ぬのだ。見ず知らずのおっさんに命を預けるなんて、正気の沙汰ではない(みんなこれだけ他人を信頼できるなら、刑務所なんていらないんじゃないか?)。

いくら僕が安全を心がけても意味がない。地獄でキンキンのビールを飲もうがそこは天国になり得ない。危険の真っ只中に安全は存在しない。

僕はそもそも遠出したくないし、するとしても電車に乗る。わざわざ車に乗るという選択はしない。

SDGsだなんだと言われているのに、みんな車にこだわりすぎやしないだろうか。車を放棄することが最もSDGs的だというのに。

人っ子一人運ぶために馬鹿馬鹿しいほどの鉄の塊を転がすという資源の浪費。車一台組み立てるために膨大なサプライチェーンと広告マーケティング。無駄のオンパレードだ(雇用が生まれる論者はお引き取り願います)。

車が道路の大半を我がもの顔で独占するせいで、道を歩くだけで命懸けになる。多様性もクソもあったもんじゃない。車に乗る人のために街は設計されている。道路の広さを半分にして土地を配ればいい。そうすれば誰も住宅ローンのためにブルシットジョブに振り回されなくなるし、不動産屋が消え失せる。

物流は車に依存しているが、それも結局のところ世界の反対側から鶏肉を運んできたりするという非効率な設計の産物なのだ。地産地消に回帰すれば物流量そのものを減らせる。

自動運転がどうだなんて言うが、どうせ10年経っても高速を走れるかどうかってところだろう。高速道路しか自動で運転しないなら、それは鉄道と何が違うと言うのか?

電気自動車の燃費は100年前と変わらないし、どうせ化石燃料燃やすし、中央アフリカの奴隷から搾取するしか道は残されていないし。

もういいよ。歩けよ人類。

近所のスーパーに行くだけで車を転がす小太りのオバハンは、地球の裏側からやってきたダイエット食品をたらふく買い込む。そして車の維持費を稼ぐためにパートでストレスを溜めて、ストレスで食う。ディストピアの住民じゃん。

ディストピアの住民は、だいたいその世界をディストピアと思っていないのだよ。『1984年』やら『すばらしい世界』を読めばわかるさ。

僕たちは車社会というディストピアに生きている。そういえばデンマークの無政府エリアであるクリスチャニアには車が走っていないそうだね。

日本にも作れないかね。車のない世界を。

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