初めて自動車を望んだ人は誰か?

もし顧客に、彼らの望むものを聞いていたら、彼らは「もっと速い馬が欲しい」と答えていただろう。
ヘンリー・フォード 出典不明

この、うんざりするほど聞かされるマーケティング界隈の俗説に対して、僕はずっと疑問を抱いていた。

フォードの言う顧客とは、20世紀初頭の大衆に他ならないわけだが、彼らは本当に早い馬を求めていたのだろうか?

僕にはそうは思えない。

19世紀までの大衆は、郊外の一軒家に自家用馬車を所有してもいないし、週末には家族連れでイオンモールや水族館に出かけていたわけでもない。そもそも、大衆は馬や車に乗って遠出する必要性すら感じていなかったのではないだろうか。

今の僕たちは、車に乗ってイオンモールや水族館に出かける以外の週末の過ごし方を知らない。だからあたかも、手頃な価格の車が発売された瞬間に20世紀初頭の大衆は飛びついたと想定しがちだが、きっと当時の人たちは「こんなの、誰が欲しがるのかねぇ‥?」と、訝しんだに違いない。

当時、車を手にしたとしても、その社会には高速道路も下道も整備されておらず、駐車場も、ガソリンスタンドも、ほとんどなかったはずだ。ならば車を買う理由なんて存在しないように見える。

ではなぜ、現代の大衆は週末にイオンモールや水族館に出かけるようになったのか?

まぁ、犯人は資本とマーケティングだろう。

車を欲しがるという欲望そのものを資本とマーケティングが生み出し、欲望のままに増殖したガソリンスタンドと高速道路とイオンモールというインフラの中で僕たちは生きているわけだ。

この週末、僕は車で4時間程度の地方都市へ友達家族と旅行に出かけたのだが、そこの水族館は酷くつまらなかった。子どもたちもつまらなさそうにしていた。

それでも子どもたちは「こら、ちゃんとイルカさんを大人しく見ときなさい!」と注意される。子どものための旅行という建前なのに、子どもは我慢を強いられて、楽しむことを強いられる。

なんとも馬鹿馬鹿しく、それでいて見慣れた光景だ。レジャー施設を楽しむ家族というステージを演じさせられる愚かな役者たちの群れ。その1人が僕だ。

こんなもののためにわざわざ車が作られて、高速道路やガソリンスタンドが建てられ、炭素が解き放たれ、生態系は破壊され、子どもは命懸けで道路を渡り、大人はブルシットジョブに勤しむ。

自動車が道路を我が物顔で独占しているせいで、僕は外で子どもから1秒と目を離すこともできない。そりゃあ少子化にもなるわけだ。

「車あったら楽やでー」とか「車ないと生活できへんわ〜!」いうのは、そりゃあそうだ。レジャー施設とショッピングモールは車社会とシンクロして生まれたのだから、車前提で作られている。レジャー施設とショッピングモールに行くというライフスタイルを前提とすれば、車は必要に決まっている。

どうやらマーケティングとは新興宗教だったらしい。

世界では徐々に脱自動車化が進んでいるらしいが、日本では先行きは暗い。未だに僕の周りには車肯定派しかおらずたびたび「男なら車ぐらい運転できないと云々」「車あった方が自由度が広がるのに云々」みたいな議論をふっかけられる。

僕はその度に「ヘリコプターあったら自由度が広がるのになんでヘリコプター買わないの?」という一言で反論し(ヘリコプターの資格取得費や維持費はそこまで高くない、少なくともBMWを買うよりは高くない)、そこから完全な自由など存在しないが故に自動車の取得が決定的な分水嶺となる根拠などが無いことを懇切丁寧に伝えることで、車信仰にマインドコントロールされた千眼美子のような哀れな人々を啓蒙している。

だが、インテリジェンスデザイン論や地動説がしぶとく生き残ったように、車信仰を脱構築することは僕の手に余る。

困った困った。

本当はわざわざレジャー施設に行く必要はない。近くの川に生き物がたくさんいれば水族館なんて必要ない。ガラス張りの不自然な魚たちは、スマートフォンの映像と大差ない。それなのにマーケティングによって自然は危険で不潔なものとなり、商品化された自然に金を払わなければならなくなった。

全くもって茶番じみている。これ、楽しいのかね人類よ。

資本がどんなプロセスを踏んで今の世界を作ったのかは僕にはわからない。僕が無為徒食の大学生ならこんなテーマを研究してみたいものだが、生憎そんな時間もない。

歴史研究ってこういう問題意識から始めるといいんだろうね。うん。

まぁ、それがわかったところで、誰も見向きもしないんだろうけど。新しい言論を広めるためにはマーケティングのバックアップが必要なのだし。

虚しいね。消えてしまえ、車社会。

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