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クラクションの99%は「しばいたろか」という意味で使用される

お気づきだろうか?

クラクションが鳴った瞬間には、既にクラクションを鳴らす原因となった問題が解決しているか手遅れになっていることに。

故に、クラクションを鳴らすことになんら実用的な意味はない。単に苛立ちを解消する手段として、クラクションは鳴らされる。要するにクラクションの意味は「しばいたろか」以上にない。

言いたいことは基本的にこれだけだ。

この前、僕は配達をしているときにクラクションを鳴らされた。その道路はひどく混雑していた。僕がクラクションの被害者になる直前、別の車が無理な割り込みをしたことに苛立ったトラックがクラクションを鳴らした。それにひきづられるように、ほんの僅かの時間だけ、前の車が進んだことに気づかず、発進が遅れた僕に対しても、僕の後ろの車がクラクションを鳴らした。

僕に対するクラクションが鳴ったとき、僕は遅ればせながら既に発進した直後だった。マニュアル車であるが故に、加速にはやや時間がかかる。そのため、クラクションによって、僕の発進はなんら加速しなかった。

クラクションの意味が「しばいたろか」であったなら、他の車が「しばいたろな」を発したことに触発されて、少し強気になった後ろのドライバーが続けて「しばいたろか」を発することにはなんら不思議はない。

数年前、始球式を行ったばかりのグラビアアイドルの稲村亜美に、多数の男子中学生が殺到してセクハラを起こした事件があったが、後ろのドライバーの心理状況は、その男子中学生たちと同一であったと言える。要するに「赤信号、みんなで渡れば怖くない」の精神だ。

きっとドライバーたちは、家では妻に煙たがられ、そのパンツや靴下は娘には異物であるかのように扱われ、息子には無視されていて、きっと日常生活にストレスが溜まっているのだろう。

パワハラを押し付ける部下がいればいいものの、もしそういう環境に恵まれず、鬱憤を晴らす場を奪われ続けている人生なのだとすれば、「しばいたろか」チャンスを逃したくないに違いない。他で粋がることができないなら、ここで粋がるしかないのだ。

そして押し付けられた鬱憤を、僕はnoteに吐き出す。僕が鳴らしたnoteというクラクションは、誰も傷つけることはない。なぜなら、批判する対象は、このnoteを読まないからだ。事実上、僕こそが鬱憤の終着駅であり、ここで全ての鬱憤が彼岸へと昇っていく。

さて、僕はここで小さな問題について文句を言ったわけだが、それでもドライバーたちのアソシエーションには感動せずにはいられない。お互いのドライビングテクニックとマナーに、文字通りに命を預けあいながら、それが概ね成立しているのが、道路という現象だ。

見ず知らずの他人をこれだけ信頼する能力が僕たちにあるのなら、信頼の欠如によって起こる様々な問題は最も簡単に解決できるような気がしてならない。

「何を言っているのだコイツは?」という感想を抱いた人もいると思う。僕だって、この感覚をうまく説明することができないのだ。ただ言えることは、他人は信頼に足る存在であることを前提とすれば、様々な官僚制を排除できると思っているのだ。

話が逸れてきた。クラクションの話だったっけ。

要するに、たまにクラクションによって鬱憤を晴らす人はいるが、それでも人は信頼に足るということだ。人々が信頼し合えば、クラクションを鳴らす原因となる鬱憤も解決できる気がしている。

世の中、もっと良くなると良いね。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!