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学歴詐称はコスパ最強

大学の卒業証明書は10万かそこらで偽造できるらしい。なんともコスパが良い。普通に大学に通えば、400万か500万かそこらの大金だけではなく4年間の時間が必要になる。

偽造すれば10万円だけで済み、レポートや出席名簿の代筆を頼み込むなど右往左往しながら4年間を過ごす必要はない。

それでも、得られる結果はほとんど同じだ。

大学の主たる機能は肩書きの付与だと、ピエール・プルデューが言っていた。その通りであることを誰が否定できるだろうか(いや、できない)。

しかし、そのことは常に曖昧にされる。というよりむしろ、そのことを明言してしまえば、肩書きの意味がなくなってしまうが故に、そのことは明言されない。

この社会では、大学の学費やトレーニング期間に見合った能力の向上が見られるかどうかについて、慎重に吟味されることはない。大企業では高卒は管理職になれなかったりするが、その扱いが妥当かどうかが問われることはない。

実際のところ、大学生は4年間かけて遊んでいるだけであり、レポート代筆や偽装出席などが横行していることは周知の事実だ。ココナラでは、レポートの代筆依頼で溢れている。

不正の結果、手に入れた卒業証明書は、その取得プロセスからして、本来なら無効と見做されてもおかしくないものだ。なぜなら、本来、授業を真面目に受けて、自力でレポートを提出することで、学歴に見合った能力が手に入る(と前提されている)のだから、能力を得るプロセスを経ていない以上、学歴に見合う能力を得ていないということになる。

しかし、レポート代筆や偽装出席は社会的に黙認されている。つまり、ズルをして手に入れた卒業証明書でも十分に意味があると見做されているように見える。

一方で、公開授業を熱心に受講した学生以外の人は、どれだけ能力が高かろうが、偽装出席する学生以下の扱いを受ける。なぜなら、卒業証明書を得られないからだ。

このことは明らかに実力主義的ではない。資格に対する宗教的・狂信的なフェチズムが横行していると見做せる。この社会では、実力主義はいいことであるとされているので、実力主義的ではないこのシステムは、早急にスクラップ&ビルドが求められる。

学歴詐称は、スクラップ&ビルドに向けた一石であり、実力主義の社会に近づくための善行であるとすら見なすことができる。

なぜなら、学歴詐称が判明するのは、理論上、学歴から想定される能力や活躍に満たない場合だからだ。学歴詐称を行うものは、学歴相当の活躍を維持しようと努力するインセンティブを持っているため、学歴詐称を行わないものよりも努力する可能性が高い。学歴相当の活躍を見せている場合、理論上は学歴詐称に問題はない。

問題がないどころか、大学というシステムの不備を明らかにしつつ、大学というシステムによって生じている膨大な無駄をショートカットしている。それは社会にとって望ましい営みだ。

学歴とは、能力や将来の活躍に対する見込みであり、人物を判定するためのプロセスを簡略化するためのものとされている。それにもかかわらず、先述の通り大学では不正が横行していて、正当な能力獲得のプロセスを経ていなくても、卒業証明書が与えられる。この時点で大学というシステムは崩壊していて、その4年間は無駄である。

「学歴は受験段階の能力を評価する基準であるため、入学後に不正があるかどうかは重要ではない」という反論はあり得る。だが、その場合は、大学生活の4年間は無駄であり、茶番であるということになる。そんな時間はない方がいい。

人生の夏休みを与えたいなら、テストだけやって合否を判定し、それを元に就職試験を4年後に行うこととして、4年間はお小遣いを与えてフラフラさせた方がいい。

学歴詐称を行い、社会における無駄をショートカットしつつ、かつ大学システムへの疑問を投げかける‥これこそが最も道徳的な態度である。詐称しないなら、学歴相当以下の能力であってもそれをカバーしようと努力しない可能性が高い上に、不具合まみれのシステムの上であぐらをかき、社会の発展を阻害する行為として非難されるべきとも言える。

仮に、学歴詐称をして、能力が学歴に見合わない場合であっても、それは善行とみなすことができる。なぜなら、その行為が学歴社会の是非を問う議論を巻き起こすきっかけになりうるからだ。



‥なんてことを子どもの進路を考えている時に思いついた。

子どもには、誠実な大人になって欲しいと思う。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!