子育て問題解決のためのアンチワーク哲学【アンチワーク哲学】
「異次元の少子化対策」という政府の号令も虚しく、少子化、保育士不足、ワンオペ育児、こうした問題が解決される見通しは一向に立たない。僕自身も1歳と4歳の子を育てる親としては、明らかに子どもへの風当たりが強い社会に変わっていることを痛感する。この問題は解決すべきであることに、異論を唱える人はいないだろう。しかし、有効な解決策をこの社会は見いだせずにいる。
いや、見出してはいる。アンチワーク哲学とベーシックインカムである。しかし、いまのところは広く一般に認められた解決策とは言い難い。
そこで今回は、なぜアンチワーク哲学とベーシックインカムが、子育て問題、少子化問題に対する有効打になりえるのかについて、説明していきたい。
・子どもには無条件の貢献が不可欠
まずは前提条件の整理からである。
人間の子どもは、他の哺乳類と比べても圧倒的に独り立ちまで時間がかかる。文化によって異なるものの、15年~20年、長い場合では30年ほどたってから、ようやく大人としてカウントされ、生産活動における戦力になる。それまでは端的に言えば足手まといだ。
とくに0歳~3歳の子どもはほぼなにもできないと言っていい。食料を生産することはおろか、目の前にある食料を上手く食べることすらできない。自分の面倒を見ることすらできないのだ。つまり、子どもは誰かが無条件の貢献をしなければならない。
・大人は子どもを世話したい生き物
とはいえ、そこまで悲観的に考える必要はない。なぜなら人類は明らかに社会的な生物として進化しており、子どもの世話をすれば、オキシトシンといった脳内物質が報酬として分泌される。つまり、子どもは世話されることを必要とするが、大人も世話することを必要とするのだ。
縄文時代や江戸時代、そしておそらくは昭和時代までは、それが上手く機能していた。自分の子育てが終わった祖母や近所のおばちゃんたち、はたまたママ友たちは、勝手に近所の子どもの面倒を見てくれていたのだ(僕の知り合いに話を聞くと、3世代で暮らしていた大家族で新しい赤ちゃんが誕生したとき、赤ちゃんの祖母と曾祖母がお世話を独占してしまい、実の母親はやることがなくなってしまったという。ワンオペ育児が問題視される現代ではおおよそ起こりえない事態である)。
・過去の人々は子どもを放置できた
そして、子どもが自由に遊べる場があった。『Always三丁目の夕日』的な町なら、家の前の道で子どもがはしゃぎまわっていても、なんの問題もなかった。車にひかれる心配もないし、何か危ないことをしようとしていたら、誰かが注意してくれていたのである。だから親は子どもを(少なくとも現代よりは)ほったらかしにできた。
1歳を過ぎた子どもを家の中に1日閉じ込めるのはむずかしい。子どもは遊びまわりたいというエネルギーを持て余し、そこらじゅうを散らかし始めるからだ。しかし現代なら、家の前で子どもを遊ばせて目を離そうものなら、即座に車にひかれて死んでしまう。だから現代の親はますます数が減っていく一方の公園か、子ども広場のような場所(これも数としては決して多くない)、あるいはボーネルンドのような有料施設に連れて行かなければならない。しかも常に付き添って監督する必要がある。このことが育児のハードルを著しく上げていることに疑いの余地はない。
・職住分離が子育ての難易度をあげた
そして、人々の働き方の変化も、育児難易度をあげている。自宅で八百屋をやるなら、店番の母親は子どもをあやしながらでも(少なくとも現代の労働者よりは)仕事ができたはずだ。顔見知りの客たちは、店主が子どもにおっぱいをあげているのを見て「おい、仕事中だろ? はやくしろ!」などと声を荒げることは稀だったに違いない。ところが、現代のオフィスワーカーが子連れ出勤することなどほとんど不可能である。あわただしく保育所に預けてから働き、あわただしく迎えに行く。この事態は子育ての難易度を大きく上げているはずだ。
・教育費が高値を更新中
小中学校を卒業しておけば、人間らしい生活を営める時代は終わった。家族をもって、十分な暮らしを送れる家や栄養のある食事を手に入れるためには、それなりの大学を卒業してそれなりの企業に就職しなければならない時代である(もちろん、代替案はあるが、多くの大人はそのように感じていることは間違いない)。そうなれば大学の学費はもちろん、塾や習い事の費用も嵩む。勉強したければ教育費が嵩むという問題ではない。有無を言わさず教育費を一定以上掛けなければならないという時代である。その費用をカバーするために、主婦は働きに出る必要があるし、サラリーマンも残業を余儀なくされる。その結果、子育ての難易度はさらに高まっている。
・現代が子育てに向いていない理由
ここまでをまとめると、現代の子育てがむずかしい理由は以下の通りである。
核家族化とコミュニティの喪失
自動車中心の街並みと子どもの遊び場の減少
職住分離
教育費の高騰
これが、昭和時代、江戸時代、はたまた縄文時代の僕たちの先祖が人口を維持する以上の育児を成し遂げていたにもかかわらず、僕たちにはむずかしい理由である。過去の人々には自動調乳機も、紙おむつも、レトルトの離乳食も、子育て相談窓口も、育児休業制度もなかった。これらの制度やテクノロジーでも補えないほどに、現代は育児がしにくい社会なのである。
■アンチワーク哲学が子育て問題解決の糸口になる理由
では、この現状を踏まえて、アンチワーク哲学が問題解決の糸口になる理由を説明していこう。
・貢献欲という概念の重要性
先ほど僕は、人間の脳では子どもの世話を通じてオキシトシンが分泌されると書いた。つまりこう言いかえることができる。「人は貢献することを欲望する。貢献欲を持っている」と。
これは単なる言葉遊びに思えるかもしれないがそうではない。貢献欲という概念を欠いたまま議論を進めると、「人は子育てをしたいわけではない」という前提が無意識のうちに形成されていく。なら、仕方なく無理やり誰かを子育てに参加させなければならないかのような方向で議論が進められていく。例えば子育てに不満を言う母親を相談窓口で説教したり、なんとかしてテクノロジーで楽をさせようとしたり、そういう方向である(これが上手くいっていないことは先述の通りである)。
しかしこの議論は明らかに筋が悪い。現代の母親が子育てに不満を言うのは、彼女の人格に問題があるからでも、テクノロジーの活用が下手だからでもない。あまりにも過度な負担を強いられているからである。人は食欲を持っているものの、朝から晩まで食べ続けることには耐えられない。同様に人は貢献欲をもっているが、朝から晩まで子育てを続けることには耐えられないのだ(それを強引に耐えさせているのが、現代社会である)。
このように考えたとき、現代の育児問題は、問題の片側しか認識していないことが明らかになる。母親たちは過度な貢献を強いられている一方で、子育てに直接かかわらない人々は、貢献欲を満たせずにいる。僕が4歳の息子を公園に連れて行けば、そこら辺のおばあちゃんたちが我先にと息子にお菓子を渡そうとする。お花屋さんで泣きわめく僕の息子を見た店員さんは、折れてしまった花瓶の花をプレゼントして息子をなだめようとする。電車で乗り合わせた人々は息子に対して笑顔を振りまき、話しかけようとする。息子の祖母や曾祖母たちは競うように息子におもちゃを買い与える。裏を返せば、それだけ人々は日常生活で貢献するチャンスに飢えているのである。
そしてこれは子どもたち同士にも生じている問題である。4歳の僕の息子は明らかに1歳の妹に対する貢献を欲している。ミルクをやったり、着替えさせたり、そういう行為を通じて自己肯定感を手にしようとしているのだ。もちろん、4歳児の貢献は拙い上に、すぐに飽きてしまうため、ほとんど役に立たない。それでも、ちょっと洗濯をする間に一緒に遊んでもらうだけでも、かなり助かっていると感じる。5歳や6歳の近所の子どもが、道路で一緒に遊んでくれたなら・・・と感じずにはいられない。きっとそのような状況になれば、5歳や6歳の子どもたちは責任感と満足感を感じながら子どもの相手をしてくれるだろう。
「育児の社会化」といった概念が不十分なのはこの点である。あたかも子育てに参加することが、本来ならやりたくない義務であるかのような印象を与えてしまうのだ。そうではなく、欲望の追求として子育てを想像することに意味がある。言い換えれば子どもを世話が必要な足手まといではなく、世話をさせてくれる喜ばしい存在として想像するのである。実際、十分に育児の人的リソースが整っている環境では、子どもは自然と世話を通じて喜びを与えてくれる存在となる。
※ただしこのことは育児における貢献の価値を減ずるものではない。空気は貴重ではないがそのことを理由に価値がないとみなすことができないのと同じである。
まとめよう。貢献欲という概念は、本来子育てをやりたがらない人々を子育てに参加させようと考える従来の子育て支援を貫いていた前提を覆す。そして、本来子育てをやりたい人々が子育てに参加できる環境づくりの重要性に気づかせてくれるのである。環境さえ整えば、人々は勝手に子どもの世話を始めるのである。光浦靖子が「(行き遅れた女性は)「母性の行き場がない」と発言するのを、僕たちの社会はもっと真面目に受け取るべきだったのだ。
事実、過去の社会の人々はそうやって子どもを世話してきた。縄文時代の先祖たちがことさらに「子育てを社会化しよう!」とスローガンを掲げていたとは考えづらい。自然と、息をするように、子育てをしていたのである。
※ただし、このことは子育てに何の苦労もないことを意味するわけではない。社会全体で面倒を見ようが、子どもの世話には一定の苦労があるはずである。誰が排泄物を処理するのか?といった問題についても、なんの軋轢も生じなかったとは言わない。しかし、ちょっとやそっとの苦労なら人間は意欲的に攻略しようとするだし、話し合いによって役割分担して(最終的に誰しもがさほど大きな不満を抱くことなく)解決したはずである。
・迷惑概念からの脱却
ここで新たな疑問が生まれてくる。もし人が貢献欲を持て余しているのなら、なぜ近所のおばあちゃんたちは「子どもの面倒をみさせてくれ」と僕の家のインターホンを鳴らさないのか?
様々な原因が考えられるが、「迷惑」という概念が大きな障害となっている可能性が高い。人間を貢献欲を持たない存在として想像するならば、他人に無条件の貢献をしてもらう状況は「迷惑をかけている」と解釈されることになる。つまり、相手に失礼なことであり、一度や二度なら感謝して受け入れたとしても、常習的にその状況に甘えることに対しては母親は「いえ、けっこうですから」と遠慮せざるを得ないのである。
そしておばあちゃんたちも、そのような遠慮を引き出すこと自体に負い目を感じ、自分からわざわざ声をかけようなどとは考えなくなった。逆に言えば、貢献をしてもらうことが迷惑ではなく、欲望の追求であるという概念上の転換が起きれば、貢献活動がスムーズに行われるようになるはずである。そうなれば、貢献欲を持て余したおばあちゃんたちの人生も豊かになり(それは図らずも介護施設で寝たきりになる老人を減らす結果にもつながるだろう)、ワンオペに苦しむ母親は救われる。
・なぜ貢献欲という概念が存在しなかったのか?
さて、人が貢献を欲望するという考え方は、現代社会においては浸透していない。なぜか? 貢献とは、他者から命令された途端に、苦行と化すからである。これをアンチワーク哲学では「労働化」と呼んでいる。
現代においては、他者の貢献の多くは金という命令のツールによって引き出されている。金は人に命令する力が一定程度ある。このことに疑いの余地はない(あなたが上司やクライアントの命令を堂々と拒否できるかどうか、考えてみると明らかになるだろう)。そして金や命令がモチベーションを下げる効果があることは、心理学者や経営学者たちが口酸っぱく指摘する通りである。
貢献欲なる概念が存在しない理由としてアンチワーク哲学は仮説を打ち立てた。
おそらく歴史上のどこかのタイミングで、貢献を命令された人々が、貢献を欲望の対象とはみなさなくなったのではないだろうか?
命令によって貢献が苦行と化しているだけなのにもかかわらず、あたかも貢献全般が苦行であるかのように、僕たちは勘違いしたのではないか?
実際、オーストラリアのイール・イロント族は「労働」と「遊び」を同じ言葉で表現している。ここでいう労働とは植物の根っこを掘ってきたり、獣を狩ったりして他者と分け合う行為である。これらは紛れもない貢献であると同時に、本人たちにとっては遊び同然であった。言い換えれば欲望の追求だったのだ。
彼らの社会には一方的に命令を下す権力者は存在しない。金をちらつかせて他者を働かせる者もいない。これは命令がないところには労働はないと考える強力な根拠の1つである。
つまり、アンチワーク哲学は、命令によって存在しないことにされた貢献欲の概念を復活させ、人間社会の組織化をより効率的にしようとしているのである(ここでいう効率とは、「誰も苦痛を感じることなく、人々の生命と健康が維持され、満足感をもって生きることができる」という目的に対する効率である)。
■ベーシックインカムが解決策になる理由
「で、代案あるの?」と問われればベーシックインカムである。
・BIによる概念上の転換
ベーシックインカムは万人に金を配る制度であるが、アンチワーク哲学はベーシックインカムを「支配からの解放」であると解釈する。
先ほど金は命令のツールになると書いたが、金が命令のツールになるのは金が不足しているからである。もしあなたが毎月生活に必要なだけの金を無条件で手にすることができるなら、不愉快な命令に従うだろうか? パワハラ上司のもとでいつまでも苦渋を舐め続けるだろうか? 普通なら仕事を辞めようと思うはずである。辞めないにしても、「いつ辞めてもいい」と思えるならば、上司に歯向かって左遷させようとしたり、労働時間の短縮を要求したり、条件交渉に踏み切ったりすることも容易になるはずだ。少なくとも一方的に踏み躙られることはなくなるはずである。
つまり理論上、人々は自分が納得した行為にだけ取り組むことができるようになる。その内容がなんであれ、人がその行為に納得をしているのなら、それは欲望の対象である。強制という意味での労働は理論上消え失せることになる。
さて、そうなったときに人々は自分が他者に貢献するときに喜びを見出すことに気づき始める。貢献はどうやら欲望であることが理解されていく。貢献欲なる概念が当たり前のものになっていき、迷惑概念が薄れていく。そうなったときの方が、有効な育児支援策が生み出されるであることは想像に難くない。
・育児負担の低下
それに、慌ただしく子どもを預けて働く母親たちも、子育てに専念できるようになるのである。自分の分も、子どもの分もBIが支給されるなら、育児休暇手当を手にするために、落選狙いで保育園に申し込むようなこともする必要はない。じっくり安心して家で育てることができるのである。
また、父親の育児休業も加速するだろう。職場の評判がさがろうが、路頭に迷う心配はないのである。夫婦と子どもの分のBIがあれば、生活は十分に補えるし、それでも金が足りなくなれば適当な日雇いバイトでもしておけば十分なのだ。
・受験競争の緩和
「それじゃ学費が足りない」などという心配も必要ない。なぜなら、子どもも路頭に迷う心配がないのなら大学に通わせる必要がなくなるからである。
アンチワーク哲学では、教育の過熱化はマイナスサムゲームであり社会の発展に寄与していないと主張する。その根拠は大卒者が溢れかえっている現代が、ほとんど中卒や高卒しかいなかった時代よりも経済成長が止まっていることである。この事実から単純に推論すれば、教育は肩書の獲得競争に過ぎず、全員がさっさと辞めた方がいい不毛な軍拡競争であるという結論は避けられない(もちろんこのことは意欲ある子どもから教育機会を奪うことを意味するわけではない)。
・地域社会への参加率向上
そして、地域社会に積極的に貢献する人も増えるだろう。現代社会において強制された不毛な労働が溢れかえっていることは、多くの人が同意するだろう。そうした仕事を辞めて子育てや地域社会への貢献を行うことは、メリットでしかないのである。
※もちろん、貢献せずにネットゲームに没頭しても構わないのである。無意味な仕事をするよりはマシだろう。
■まとめ
駆け足になったが、以上が子育て問題に関するアンチワーク哲学からの回答である。人間観の更新と制度の更新。それによって子育て問題は解決されていくと主張する。
アンチワーク哲学は子育て問題にかかわらず、社会のあらゆる問題に通底する人間観に関する理論の更新を行うレンジの広い哲学である。そして、相乗効果で様々な問題にいい影響が波紋していくと考えている。あくまで今回は子育て問題にフォーカスしたが、他の問題との波及効果が起きるはずである。
故に子育てに問題だけではなく、社会全体を見据えた視野で問題を把握する必要がある。
アンチワーク哲学の総合的な理解に関しては、以下の記事より、『14歳からのアンチワーク哲学』を無料ダウンロードの上、参照して欲しい。
また、ベーシックインカムの有効性については以下の電子書籍に詳しく書いている。
1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!