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『もうじきたべられるぼく』とかいうクソ絵本、こき下ろしていいか?

たまたま立ち寄った本屋で、タイトルが気になって立ち読みしてみた。僕は知らなかったのだが、どうやら(この本の触れ込みが正しいのだとすれば)TikTokで「泣ける」と話題になっている絵本らしい。

アマゾンのレビューを見ても「泣けた」とか「考えさせられた」とか、そんな感想で溢れかえっている。

食べられると決まって産まれてくる命にも、家族がいて、感情があって…でも叶わなくて…
命の重みは皆同じ。
そんな命をいただく。自然と涙がこぼれました。
小学生の娘にも命の尊さ、大切さ、食育…伝わってるといいな、

内容はなかなか悲しい内容ですが、それが子供に響いている様子。
食べることのありがたさを感じていました。

が、この絵本、僕が見たところ、とにかく嘘くさい。というか、単純に嘘なのだ。

ストーリーを雑に要約するとこうなる。

主人公の「ぼく(みたところホルスタインの雄)」は幼少期にお母さんから引き離されて、肉牛として飼育された。狭い牛舎に閉じ込められて、「太っている方が売れるから」と餌を食べさせられて、ついに屠殺のタイミングがやってきた。そこで「ぼく」は最後にお母さんを一眼見ようと電車に乗ってお母さんがいる牧場へと会いに行った。
お母さんは他の子どもたちと牧場内で幸せそうに走り回っている。「ぼく」は自分がいまさら顔を見せたところで悲しませるだけだと思い直し、電車に乗って牧場を後にした。するとお母さんは僕の姿に気づいて必死で電車を追いかけてきた。
「ぼく」は最後に一言、心の中でつぶやく。「せめてぼくをたべた人が自分のいのちを大切にしてくれたらいいな」と。

さて、このシナリオには幾千ものツッコミどころが存在する(もちろん僕は「牛が電車に乗るわけがない」とかそういうことを言いたいわけではない)。

まずは事実関係から整理していこう。主人公の「ぼく」は見るからにホルスタインであり、乳牛の母親から生まれた雄であることがわかる。そもそも食肉専用の牛ではないが、雄に生まれた結果、食用として育てられることになる。

ではホルスタインはどのように生まれ、育てられているのかを見ていこう。狭い牛舎の中で鎖やロープで拘束された雌のホルスタインは生後13~16ヶ月ほどで、人工授精させられる。10ヶ月ほどの妊娠期間をへて、子どもを出産する。

※参照はこのあたり。

そしてその子どもは母親に触れることも許されず即座に引き剥がされ、哺乳瓶でミルクを飲まされる。このとき子どもが雌だった場合はに乳牛として育てられ、雄だった場合は肉牛として別の施設で育てられ、2年弱で出荷となる。もちろん、この間も狭い牛舎に閉じ込められている。

一方母親の方は子どもを産んでからは搾乳地獄が始まり、同時進行で人工授精が行われ、次の出産に備える。生物種としては最大で20年ほど生きるが、出産能力の衰えにより5年ほどで自らも食肉として出荷される

母牛は狭い牛舎では、ほとんど動き回ることもできないまま、延々と人工授精と出産と搾乳を繰り返される。子牛の雄の方も、広々とした牧草地に移されるのではない。糞とハエと味気ない濃厚飼料で溢れかえった牛舎の中で一生を過ごす。もちろんこんな状況だと病気になるのは当たり前なので、牛たちはワクチン漬けにされてしまう。それでも、肉や牛に影響のない病気は放置である。

理想。だいたい僕たちはこんなふうに牛が育てられていると想像している。
現実。糞尿まみれ。病気まみれ。蠅まみれである。
この状況になるくらいなら、まだ素手でトンネルでも掘ってる方がマシだろう。

人間で言えば、生まれた瞬間に母親から取り上げられ、1畳くらいのスペースに鎖で繋がれ、そこでウンコを垂れ流しながら、誰と会話することも許されず、湿気たクラッカーを食い続けて、中学生くらいの年齢で殺されるようなものだろうか(ついでに言えば麻酔なしでツノをとられたり去勢されたり鼻に輪っかをつけられたりする)。

こんな人生を過ごしているのだ。おそらく母牛も子牛も、親子という概念すら知らずに過ごしているに違いない。ならば絵本のように、一眼見ただけでどうして我が子だと理解できるだろうか。

アニマルウェルフェアを重視する酪農家は放牧スタイルを採用するケースもあるが、ごく少数に過ぎない。牧場で子牛たちと共に戯れられるような(比較的)幸福な母牛など、日本の家畜の1%もいればいい方だろう。

つまり、絵本の中にあった牧草地でのびのびと母牛と子牛が遊びまわる光景はほとんどありえないか、あったとしてもごく少数なのである。

こんな現実とかけ離れた牧歌的な描写をしておきながら「人は他の生き物を殺さないと生きていけない」的な残酷な現実を正面から受け止めたかのようなツラをしているわけだ。これほどまでに綺麗に殺菌された現実など、現実ではない

そして、僕が最も偽善的に感じたのは最後にあの台詞、「せめてぼくをたべた人が自分のいのちを大切にしてくれたらいいな」だ。ご存知「いただきますを言えばセーフ理論」である。親たちはこの理論に則り「ほら、命をいただくのだから残さず食べましょうね」と子どもたちを叱りつける。

まず当然のことながら、牛がこんなことを考えるわけがない。牛からすれば、自分を食べた人間か命を大切にしようがしまいが、どうでもいいのである。そんなことで牛に報いたつもりでいるのなら、偽善的にもほどがある。

そして、人は命をいただかないと生きていけないことは事実だが、現代の残酷な工場畜産システムがなくても生きていけることも事実だ。そもそも現代人は飯を食い過ぎているし、肉を食い過ぎている。餓死する人よりも、食い過ぎで死ぬ人の方がはるかに多いのだ。ダイエット食品やスポーツジムがあれだけ宣伝されているのに、そのことに違和感がないのだろうか?

大人たちは子どもにご飯を残さないように我慢を強いるくせして、自分たちは焼肉食べ放題を我慢することすらできない。子どもたちがご飯を残すことはある意味で理にかなっている。なぜなら、子どもはそんなに食べなくても死なないが、遊ばなければ死んだも同然だからだ。一方で、大人は「痩せたい…」とかなんとか言いながら食べる必要もない肉やスイーツを頬張り、その癖「ちゃんと食べなさい」と子どもを叱る。これがカルト宗教でなければなんなのだろうか?

また、もしも命を大切にするというのなら、食べ過ぎによって無意味に栄養満点になった人間のウンコも堆肥として再利用すべきだろう。それにより大豆でも育てておけば、タンパク質の摂取もある程度補うことができ、家畜を食う量は減らせる。そうすれば、まだ子どもと共に牧草を食むような比較的幸せな家畜を増やせるはずだ。

(というか、そこまでせずとも単に1日3食ではなく2食にするくらいのことはできるし、少なくとも豚のようにブクブク太るまで食べないことは可能だろう)

この絵本の作者は想像通り、「食べ残しが多いのは良くないよね」的な話をインタビューで語っている。が、そういう問題ではない。

僕は常々、畜産の問題点は屠殺ではなく飼育であると主張してきた。その辺の草原をほっつき歩いている牛を通り魔のように殺して回るくらいであれば、さほど残酷とは思わない。地球では、よくあることだろう。

しかし、糞尿まみれで一生振り返ることなく過ごすような一生を強要することほど、この地球上に残酷なことはない。そのような事態が、この地球上では何十億匹という単位で行われているのである。

残念ながら、このような事態は、あまり注目を集めることはない。動物愛護団体は屠殺シーンを子どもに見せつけるような的外れな活動を繰り返すばかりである。

少し話は逸れるが、僕は「飼育」に注目が集まらないのは、「生命至上主義」が蔓延っているからだと考えている。

生命至上主義とは、「生きていて、寝床があって、ご飯があるんだから、別にいいでしょ?」という発想であり、「餌を探すという大変な活動をやらずに済むのだからいいじゃん?」という発想だ。

これは人間の労働観の投影である。すなわち、「食べ物を手に入れること=労働=辛い=免除されるのはいいこと」という発想だ。しかし、僕が繰り返し主張しているように、食べ物を手に入れる活動そのものが辛いわけではないし、食べ物を手に入れる活動すべてが労働ではない。

世界には遊びと労働を同じ言葉で表現し、区別しない民族もいる。

食べ物を手に入れる活動が辛いのではなく、他人の命令と支配によって好きに行動できないことが辛いのだ。そうでないのなら、趣味で狩や釣りをしようとする人なんて現れようがない。

生物は、自分の決定と行動で仲間と協力関係を結び、食事を手に入れ、好きに食べ、好きに休む。これこそが生きるということである。

しかし、人間は他者の支配を望むこともある。他者の支配とは、自分の代わりに食べ物を手に入れるよう強要することを意味する。強要された途端に、その行為は苦痛と化す。いつしか、食べ物の入手活動は本質的に苦痛であると、僕たちは思い込まされてしまった。本当は、自分たちで好きにできるなら、それは遊びと変わらないというのに。そして逆に食べ物を与えられるだけで僕たちはその相手に従属しなければならないという価値観を育んだ。食事至上主義である。

だからこそ、僕たちは「食べ物を大事に食べようね」と教えこまされるのだ。はっきり言って僕たちの先祖はそれほど食べ物を大事にしていない。パンが発明されるまでに無駄になった小麦の量は一体どれくらいあっただろうか。

僕たちが食べ物を重視するのは、せいぜい戦時中の飢餓体験のトラウマのようなものだ。高山病にかかった人が下山してからも酸素マスクを手放せないような状況と言える。つまり、精神の病気である。

さて、脱線が過ぎたので、これくらいにしておこう。ともかくこの絵本は偽善的で、欺瞞的で、教育に悪い。

現実と異なるイメージを植え付けて行動を統制しようとする行為をプロパガンダと呼ぶわけだが、この絵本で行われていることはまさしくプロパガンダである。嘘のイメージを子どもたちに見せて「お肉を食べるのは仕方ないよね。いただきますを言って食べ残しをしなければセーフだよ」と、現実に何も手を加えないよう(そして今の産業構造がダメージを受けないよう)誘導しているのだから。ここでは、残酷な畜産現場を見せつけることの方が、「ネットDE真実」ということになる。

正直、家畜の現状を見れば、肉を平気で食うのは難しい。僕はなんちゃってヴィーガンであって、完全なヴィーガンではないが、肉や卵を買う時もできるだけ平飼いの卵を買い、グラスフェッドの牛肉を選び、ジビエ肉や天然魚を選んでいる。工場畜産は純粋に気分が悪い。

もちろん、僕は畜産業に携わる人々が血も涙もない悪魔であると主張するつもりはない。彼らも老人に席を譲り、子どもにプレゼントを送る善良な市民だろう。だが、彼らは食い扶持を稼ぐために心を殺し、現代のアウシュビッツに家畜たちを閉じ込める。

僕がベーシック・インカムによってあらゆる問題が解決すると主張するのはこのためである。

好き好んで、生まれたての牛を母親からの引き離して糞尿まみれの牛舎に閉じ込める人類などおそらく1人もいない。社員たちは食い扶持を稼がなければならないからやっているだけであり、社長は自分や社員たちを食わせつつ利潤をあげるためにやっている。(そして株主は、自分たちの安定した生活のためにやっている)。何もせずとも食い扶持を稼げるようになれば、畜産業に携わるとしても、せめて牧草地で育てるようなやり方を選択するはずだろう。

さて、こんな絵本で食育をしたつもりならお笑い種である。これを読んで感銘を受けている親たちは、子どもたちに命の大切さを教えこむ伝道師になったような顔をしているが、実際のところ嘘に騙されたカルト宗教の信者と変わらない。そもそも自分の中に植え付けられている畜産業のイメージ(牧草地で牛たちがのんびりと草を食んでいるような)を鵜呑みにするのではなく、「実際のところどうなっているのか」と一度でも検索する情報リテラシーを親たちが身につけた方がいい。だが、大人は往々にして「自分はもう学ぶべきことは学びきった」と信じきっているものだとつくづく思う。

「命をいただくということ…」とか「食べ残しをしないように…」とか手垢に塗れたクリシェに都合のいいストーリーを提供してくれるという理由だけで、この絵本は心地よく響いた(「心地よくない現実を見せてくれる」という体裁の心地よい物語である)。

そういう物語には用心すべき。このクソ絵本から学べる教訓は、せいぜいこれくらいである。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!