中山元『労働の思想史』を読んで
■この本を読むきっかけ
教養の幅広さ至上主義(もうちょっといい名前がつけられそうだが、まぁとりあえずこう呼ばせてほしい)みたいなものが、近ごろ自称インテリ界隈の中で跋扈している気がする。僕はこういうマウント合戦には極力参加しないつもりでいたのだが、知らず知らずのうちに参加していたらしい。最近、そのことに気付かされた。
僕は「労働」というテーマについて本を書いたし、次もこのテーマをさらに発展させて本を書こうと思っている。
最近、そのためのヒントとして紐解いた著作がハイデガー『存在と時間』とホフマイヤー『生命記号論』である。どちらも膨大な時間をかけて読んだのだ。特に『存在と時間』を読破するには二ヶ月もの時間がかかった。おかげで僕の研究は大幅な足止めを食らった挙句、ほぼ収穫がなかった。
なぜこんなことになってしまったのか? 僕は気がついた。「一見、労働とは関係ないテーマを労働に結びつけて語る俺、教養幅広くてかっけー」がやりたかっただけで、身の丈に合わないことをしてしまったのではないかと。そのような動機が全くなかったと言えば嘘になる。僕だって人並みに虚栄心を持っているのだ。最近の知的最先端の理論化を自称する哲学者や思想家は、唐突に量子力学を持ち出したりするが、あれと同じことである(そういう姿勢が、アラン・ソーカルのような人に批判されるのだろう)。
というわけで、僕は初心に帰ることにした。『労働の思想史』という何ともストレートなタイトルと、ポップな装丁のこの本だ。
アウトサイドギリギリを変化球で攻めようとして失敗を続けてきた僕にとって、ミットのど真ん中に快音を立てるこの本は、かなり役に立ったと感じる。そこで、自分用に内容を整理する意味でまとめていきたい。
■この本はなんなのか?
一言で言うならば、労働を考える人にとっての教科書のようなものである。人間の歴史の中で「労働」がどのように扱われて、どのように考えられてきたのかについて、著者の中山は公平な目線を気取りながら解説している。
もちろん、あらゆる教科書と同様に、僕はこの本からも一定のイデオロギーを感じながら読むこととなった。だが、それすらも僕にとっては「労働」を考えるにあたってヒントとなった。
正直なところを言えば、説明の順序がわかりにくい上、今の文章は過去の哲学者の意見なのか、それとも中山の意見なのか、判断がつかない場面も多く文章としては一級品とは呼べない。だが、情報量を揃えた教科書としてはそこそこ使えると感じた。
■まずは狩猟採集民の話から
僕らのこの街がまだジャングルだった頃について、はじめて本格的に思索をめぐらせたのはおそらくルソーだろう。中山はまず、ルソーの『人間不平等起源論』を読み解くところからこの本をスタートさせる。だが、『人間不平等起源論』を読んだことのある人なら知っている通り、この本はいわば妄想である。つまりルソーが「まぁたぶんジャングルだった頃はこんな感じだったんじゃないかなぁ…」で書き連ねた妄想をもとに理想的な社会について考えた本なのだ。そのため、中山はルソーをそこそこに参考にしつつも、現代もアフリカで狩猟採集をおこなっているブッシュマンの事例で補足しながら、原初の時代の労働観の再構築を試みている。
だが、既に中山の眼差しは公平を装いながら、現代的な労働観に支配されているように感じた。例えば、家族の中でブッシュマンがどのように役割分担をしているのかを説明する以下の記述。
なんてことのない「ブッシュマンは幸せそうでいいなぁ」という記述であるが、この一文は既に現代の労働観が押し付けられている。狩猟を「しなければならない」ものだと解釈しているからだ。あたかも狩猟前の彼らは、5月病を耐え忍びながら通勤電車に揺られている新人サラリーマンのような気分になっていることが前提とされている。
もちろん、「食べなければ死ぬ」のだから「しなければならない」のは当たり前だと感じるかもしれない。だが、狩猟採集民の中には、手にした食糧をどれだけ豪快に捨てるかを競い合うような人々もいるし、食べ物は無意味に馬鹿みたいに腹に詰め込むようなことも、狩猟採集民の行動としてはありきたりなものである。アメリカインディアンのパイオニアたちは、無意味に大型動物を殺戮し、ろくに食べることもしないまま放置していたと聞く(例の如くソースは忘れたのである)。つまり、狩猟行動も、見方によっては既に過剰であり、娯楽なのである。狩猟が嫌なのであれば、別にやらないことだってできるはずだ。それでもなお彼らが狩猟をやめないのは、おそらく本人たちが「やりたい」「楽しい」と思っているからではないだろうか?
とはいえ、これはまだ僕の仮説である。だが、狩猟といった食糧を手にする活動はすべて「忌むべきものである」という中山のイデオロギーに染められていることに注意しながら、読み進めた方がいいだろう。
教科書的な説明に絞れば、狩猟採集民は蓄積のない時代であり、労働力は過剰であった、となる。そして、悪名高き文明がやってくるようだ。
■古代文明がやってきた
狩猟採集→定住&農業→都市国家という歴史観は最近は見直されているらしいが、本書では、一般的な労働観を概観するという意味でか、古き良きテンプレートをなぞっている。それはいいのだが、農業の発生に関する記述には疑問を抱かざるを得ない部分があった。
もちろんこれは「ルイス・マンフォードという人がそう言ってるのです」という前提があるのだが、それでも何のフォローもなく明らかに間違ってそうな描写がされているのには違和感がある(そもそもどこまでルイス・マンフォードの意見であり、どこまでが中山の意見なのか、はっきりしない)。まるで女性たちは現代の育種農家よろしく、学校で学んだメンデルの法則を脳裏に浮かべながら、延々と異種交配を続けていたかのようではないか。
ソースをいちいち探してくることはめんどくさいのでしないが、穀物や野菜の栽培化が進んだのは、ある意味では意図せぬ効果だったはずだ。単によく実る種を採っているうちに、その傾向が強化され、結果的に品種改良がなされたと言う解釈の方が事実に近いと思われる。
また、次の記述も読者の頭に疑問符を浮かばせる。
なぜか狩猟は「やらなければならない」なのに、育種は無条件で楽しいらしい。一体何を基準に「楽しい」と「楽しくない」が選り分けられているのだろうか? そして、もっというと、育種が楽しいのであれば男性たちもそれをやろうとはせず、延々と楽しくない(と中山が考える)狩猟に励んだのはなぜなのか? そういう疑問には中山は答えてくれない。労働に対する偏ったイデオロギーが前提にあることは、もはや明らかであるように思う。
その後の王権の誕生の説明においても、どうにも違和感のある記述はあった。余剰が生まれ、余剰を管理する官僚制のために文字が発明されていったとする記述だ。
果たして古代のレベルで、農民たちの経験則を遥かに凌ぎ、尊敬を集めるだけの気象の知識を官僚たちは有していたのだろうか? この記述は、農民たちは季節の移り変わりに何の法則性も見出すことなく、気象の移り変わりを予測するようなこともなかったかのように前提されている(同じような人々が、自力でメンデルの法則を発見していると想定されているというのに)。が、恐らくそんなわけがない。
だが、繰り返すが、この本はそういう部分も含めて楽しんでいこう。
■古代ギリシアの労働観
なにはともあれ、色々すっとばしてギリシアである。ギリシアの労働観といえば、ハンナ・アレントが『人間の条件』で大いに参考にした(悪くいえば引き摺られた)労働観である。
ギリシア人(とアレント)は、不可解なまでに「生命の必要性に駆られた活動かどうか?」と「その仕事が形になって残るか?」という点を強調した。生命の必要性にかられていて、かつ形に残らないようなものを「労働」として蔑むのが、彼らの特徴であり、中山もその点を説明してくれている。例えば料理について。
ある意味でギリシア人はかなり偏っていた。そもそも、作品として残るかどうかがそこまで重視される理由がわからない。誰にも見向きもされない銅像よりも、人生で一番美味かったピラフ(と、その思い出)の方に人は価値を感じるものである。
また、「味の好み」とは既に生理的な必然性をほとんど離れたものであることは明らかだ。人間は古代の時点から、必然性を超えた労力を料理に注ぎ込んできている。よくよく考えれば、質素な食事の代表格とされている「パン」ですら、わざわざ挽いて、捏ねて、発酵させて、焼いているのである。そんなことをしなくても、小麦をお粥にして食べれば、大幅に労力を削減できる。なるほど、カロリー摂取効率を考えればお粥よりもパンの方が優れているのかもしれない。だが、石臼をゴリゴリとするのと、「よく噛む」のと、どちらが効率的だろうか? 合理的に考えれば、よく噛めばいいのである。しかしそれでもなお、古代の人々はパンを作った。このことは注目してもいいことだろう(それに、古代の人々が厳密なカロリー計算をおこなっていたかどうかは、甚だ疑問である)。
慎重に考えなければならないことは、「ギリシア人の価値観」とは、人生において一度もパンを焼いたことのなかった自由人の価値観である。彼らは、自分が見下している階層の人々がどんな創意工夫をしていて、どんなやりがいを感じているのかなんて、いちいち考えなかっただろう。「なんか知らんけど、つまらんことしてるんやろうなぁ」以上には何も感想を抱かなかったに違いない(いわば童貞が「オナニーでよくね?」と強がっているのと同じ構図だ)。しかし、労働や仕事から解放されて、自由に観想して、自由に文章を残したのは彼らである。だからこそ「料理=つまらないもの」という価値観がギリシアを代表しているかのように僕たちは錯覚する。実際のところ、パンを焼いていた人がどんな気持ちだったのかは、僕たちにはわからない。
さて、ギリシアの自由人の価値観はこの後どういうふうに変化していくのだろうか? 続けて見ていこう。
■中世から近代の労働観の変化
中世(のヨーロッパ)では奇妙な出来事があった。それは…
なぜか? それは「その仕事の成果を目指してではなく、修道士に自己の放棄と服従の精神を培養するため(p61)」に、畑を耕し、飯を作り、掃除をした。ようは禁欲と勤勉を身体化することが目的だったのだ。これは日本でも見覚えのある光景である。曹洞宗の僧侶に日常の些事を修行として取り組んだことは有名な話だ。
黙々と行う雑巾掛けが、意外と楽しいことは、誰しも経験済みだろう。彼らはそのような体験で人生を埋め尽くそうとした。ここではある種の価値観の転倒が起きていると、中山は指摘する。
しかし、このような活動は、必然的にあるジレンマにぶち当たる。
このようなジレンマは、さらなる禁欲を解くプロテスタントが登場しても、解決されることはなかった。そして、マックス・ウェーバーがかの有名な『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で説いたように、次第に宗教の側面が忘れ去られ、勤勉と富の蓄積のみを目的とする資本主義の精神が生まれてくる。ベンジャミン・フランクリンの「時は金なり」から始まるパラノイア的名言は有名だ。
あれよあれよといううちに、古代ギリシアにおいては忌むべきものだった労働が、中世~近代にかけて肯定されることとなったと、中山は言う。
だが、ここで中山が見落としているのは、「労働が本来忌むべきものである」という価値観は未だ転倒されていないという点だ。つまり、人間が農作業といった労働を肯定的に捉えるには一定のトレーニングが必要であり、そうでない生まれたての人間であれば労働を嫌悪するものであるという前提は、未だ覆っていない。労働が肯定されるのは、あくまで「我慢を覚えるため」なのだ。というわけだ。
ともかくとして、労働は義務として、しぶしぶながら(しぶしぶであるそぶりすら見せないようにして)肯定されるようになった。そして必然的に、それは道徳となった。
なんとなく、現代の労働観に近づいているような雰囲気がしてきた。そしてついに悪魔がやってくる。資本主義という悪魔が。
■資本主義と労働思想百花繚乱時代
ぶっちゃけて言うと、ここから先が本書のページ数の半分以上を占めているわけだが、マルクスの疎外論や、ラファルグの怠惰礼賛、フーコーの規律社会、シモーヌ=ヴェイユの工場体験記の話、イリイチのシャドウワークの話、感情労働の話などなど、あれこれ資本主義をネタに思想を展開する人々が紹介されるわけで、僕にとって目から鱗となるような記述は少なかった。なので、残ページのほとんどは「なんか、みんな色々言っていたらしいよ」で総括させていただく。
だが、僕にとって参考となる論客が1人だけいた。シャルル・フーリエである。本書で引用されている一文を読んで、僕は思わずフーリエのファンになってしまった。
そして、人間の移り気や飽きっぽさを肯定するところや、労働とされる行為の本来的な喜び(自虐的な喜びではない)を見出した点が、僕の労働観と通じると感じた。
脱線するが、僕の労働観は、おそらくフーリエの発想をさらに進めたようなものであると感じている。フーリエが「労働を楽しいものにしよう」と考えたのに対し、僕は「楽しいことをやって、結果的に労働を代替しよう」と考えているのである。
※これはテクノロジーによる労働代替論ではない。くわしくは以下。
その観点は中山にも全くないではなかった。だが、「労働も楽しいかもね」というときの中山の解釈はかなりネガティブなものであった。
要するに、「労働(とされる行為)が楽しいっていうのは無理して言ってるんだろ?」という態度である。実際のところはその通りなのである。生命の必然性に駆られて誰かに命令されている以上は、それをはじめから楽しむことはできず、なんとかして楽しみを見出しているに過ぎない。
だが、僕の主張は、必然性や命令というくびきを解かれれば、自ずとその行為は楽しくなるというものなのだ(が、書評なのか、僕のオピニオンブログなのか、だんだん見境がなくなってきたので、この辺りにしておこうか)。
■(強引に)まとめ
長引き過ぎてちょっと疲れてきたので(さーせん)、まとめるとしよう。
冒頭にも書いた通り、この本は労働に関する価値観の変遷の歴史を辿る意味ではいい本だったが、中山独自の考察や、現代の労働観を揺さぶるような体験を期待してはいけない。あくまで現代の一般的な労働観を過去に投影した記述なのだ。そして「やりたくない農作業などの労働と、ディズニーランドやニンテンドースイッチといった娯楽」という二項対立を常に前提としている。
また、品種改良の話をはじめ、なんともスッキリしない解釈も多かった。本文では触れなかったが、ブルシット・ジョブについても、中山は微妙にアスペ気質な解釈をおこなっている。中山曰くブルシット・ジョブとは「自動化のあとに人間に残された煩瑣で非人間的なブルシットジョブ」というものらしい。AIが多くの仕事を自動化しても残る仕事がブルシットジョブであり、「そういう仕事とうまく付き合っていこう」的な雑なまとめ方もされている。
ブルシットジョブとは明らかに生命の必要性とは関係のない労働なわけだ。これは「労働=生命の必要性に駆られた行為」という本書を一貫していた前提と真っ向から対立することとなるが、中山はそのようなことは気にせず、ブルシットジョブがなくなるような未来についてチラリと触れることすらない。フーリエやマルクス、エンゲルスたちの煮えたぎるユートピアへの情熱を紹介しておきながら、中山のスタンスは「まぁ大変やけど、やらんとしゃーないし、文句言わんと頑張っていこうや」というシニカルなものだったわけだ。
まぁ、僕は別にアジテーションを求めてこの本を読んだわけではない。だが、逆に意味でアジテーションを食らってしまった。労働について研究するような人ですら、労働についてはあらゆる価値観でがんじがらめにされている。僕はこういうスパゲッティコードを解きほぐしてみたいと思っているわけだ。残念ながらこの文章の中では、それがうまくいったと言う手応えは一歳なかったが(書評と主張をごっちゃ混ぜにしたことは反省している)、この本から得られたヒントをもとに、もう一冊本を書けば、スパゲッティコードを解きほぐすことができるような気がしている。
次はどうしようか。フーリエの著作でも読んでみようか。
悩む。そんな時間があるのだろうか。そろそろピケティも新刊を出すので、それに備えてスタンバイするべきかもしれない。
※まだまだ先だと思っていたけど、今週木曜日発売だった。やっぱり、ピケティ待機で。
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