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『天気の子』にまでアナキズムを読み取る病気にかかってしまった

↓この記事でも書いたが、『天気の子』はテロリズム的なストーリーだ。

テレビでやっていたのを久々に観たけれど、記憶していた以上にテロリズム的‥というかアナーキーな映画だった。

警察をはじめとした法律と権威は、明らかに主人公の帆高にとって邪魔者として描かれている。「僕たちから何も足さず、何も引かないで欲しい」という要求を通すためだけに、拾ったピストルを発砲したり、警察署から逃げ出したり、カーチェイスしたり、いくつ法律違反をしているのかもはや数えきれない。

スポンサーへの配慮のためか、酒を勧められても断るし、2人乗りするバイクは原付二種だ。「しっかりルールは守っています。ここから先はフィクションです」とでも言いたげに。

ただ、帆高は別にユートピアを実現するためにテロリズムをおこなっているのではない。意味ありげにカップ麺の上に描かれた本はプルードンの『貧困の哲学』ではなく、サリンジャーの『キャッチャー・イン・ザ・ライ』だった。

要するに彼は左翼の革命家ではなく、繊細な家出少年なのだ。別に、政治信条を貫き通すためにマクドナルドの利用を拒否する必要もない。そんな細かいことは彼にとってどうでもいいのだ。

だから、月給3000円でこき使われようが、彼は労働争議を起こす必要はなかった。人は自由を求めるが、完全な自由を求めるわけではない。例え自分の家が水没するという不自由に見舞われても、人はそれなりに楽しく生きる。ただ単に、自分が求める自由が失われることだけを、人は拒否するのだろうか。

帆高にとって、必要なのは陽菜と暮らすという自由だった。それ以外はどうでもよかったのだ。だから発砲もできた。それに、どれだけ搾取されようが、帆高が東京に来たばかりの生活を楽しんでいた(ここから「押し付けられる労働基準法があてにならないこと」を読み取ってしまう僕は、深刻なアナキズムに毒されすぎだろうか?)。

左翼の革命家は、さらなる自由を求めてしまう。「そんなにいらないよ」という人にも、自由を押し付けようとする。だから左翼は冷ややかな目で見られるのだ。資本主義にまみれた新宿の美しさを満喫する帆高の存在は、左翼が失敗する理由そのものなのかもしれない。

だが、権力者の秩序を部分的に受け入れていても、帆高にとってもカオスはまだ滅びていない。新開誠作品には、「不思議への憧憬」とも呼べるような自然観が存在している。秩序を求める人間の目からすれば、「世界は元から狂っている」ということになるのだが、新開誠やその主人公たちは、そこにあるカオスを見つめる。一方で、新開誠作品に登場する警察や家父長制的家族は、そんな世界を見て見ぬ振りして、全てが秩序だっているという仮定のごっこ遊びを続ける。

新開誠作品は、スポンサーの掌の中で秩序立ったものとしてコントロールされている素振りを見せている。しかし実際のところ、あたりにはカオスの香りが漂っている。

描かれているのは決して政治思想としてのアナキズムではない。個人の生きる指針としてのアナキズムであり、誰に押し付けることもないアナキズムなのだ。

政治思想としてのアナキズムは(これは共産主義も同じなのだが)、ミイラ取りがミイラになるパターンに陥ることが多い。つまり、権威を新しい権威に置き換えるだけに留まるわけだ。一方で、個人主義的アナキズムは警察に叩き潰される。だから、ハキム・ベイはゲリラ戦的なアナキズムとしてT.A.Zという概念を提示したわけだ。

さて、そういう目線で『天気の子』を読み取っていると、セカイ系と呼ばれるジャンルは大抵が個人主義的アナキズムにたどり着くことに気づいた。ということは、『すずめの戸締まり』も、そんな感じの映画になるのだろうか。予告編を見る限り、そんな予感を感じ取らずにはいられない。

観に行こう。そしてきっと僕は「『すずめの戸締まり』とアナキズム」みたいな記事を書くのだろうなぁ。病気なのかもしれない。

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