「再現性」「マニュアル化」「ルール化」「ピラミッド化」「報連相」への盲信

僕は年間100社くらいの企業を取材しているのだが、その中でよく出会う発言がある。

「今の会社のやり方は再現性がないので、早くルール化やピラミッド化をしたいんですよね」

これは小規模な会社やベンチャー企業でよく聞かれる言葉だ。たいていそのような会社では、ルールや官僚制、ピラミッドとは無縁で、社員の1人ひとりが勝手に意思決定しているケースが多く、それでいて、たいていは上手くいっているし、社員は楽しそうにしている。そのような話を聞いて僕がその状況を称賛すると、「でもね…」と先ほどのセリフが発せられるのだ。

そこにある前提は次のようなものだ。「明確な役割やルール、マニュアルが存在し、上司の命令に従って部下がそれを遂行するという状況が望ましいものである」。

これに対する反論はいくらでも思いつく。管理にまつわる官僚制には膨大な手間がかかり、人件費の高い管理職を雇うことには膨大な金がかかり、押し付けられたマニュアルは部下のやる気を削ぐことは、誰でも知っている。それだけのデメリットを補って余りあるほどのメリットが「再現性」とやらに備わっているのかどうかは疑問だ。ベンチャー企業が徐々に「大企業病」に冒されて悲劇を引き起こした実例は枚挙に遑がないのに対し、その逆の話はほとんど聞かない。つまり、社員を自由にさせすぎて会社の備品が全て盗まれたとか、社員のノルマを排除した瞬間に売上が半分になったとか。

それなのに、「管理」を求める発言をするというのは、一種刷り込まれた思い込みというか、カルト的な側面があるように見える。僕が話を聞いたとある工務店では、創業以来、職人たちは何の管理もされておらず、勝手に成果を上げていた。ところが社長の代替わりで事あるごとに報連相を求められるようになり、大量退職に至ったらしい。それでも、人事制度改革に携わった女性に話を聞いたら「それが当たり前やねん!」と豪語していた。

これはもう理屈ではなく、宗教的なものだ。ティール組織という発想が受け入れられないのは、イスラム教徒に豚肉を食わせるようなもので、そりゃあ難しい。

では、そもそもなぜこのような信念が受け入れられているのだろうか?

僕は「自由とは、忌むべきものである」という道徳が原因であるように思う。僕たちは理由もなく白の靴下を履かされ、耳に髪がかからないように整えられ、朝から晩まで机に齧り付くことが、良いことであると言い聞かされて育った。好きな色の靴下を履くことや、そもそも靴下を履かずに学校に行くことといった自由な行為は不道であるとみなされた。自由=不道徳であるという道徳は身体に染み付いているせいで、僕たちは自由な人を見かけると「けしからん!」と骨髄反射を起こすようになったのだ。

別の説明も考えられる。それは、「自分は自由を与えられても責任感を持って創意工夫できたが、万人がそれをできるわけではない」という優越意識だ。ダニングクルーガー効果なるいい感じの説が主張しているように、人間にとって愚者を見出したいという欲望から逃れるのは難しい。「自由からの逃走」とか「自由の刑」みたいな実存主義者の体育会系な世界観が、その欲望を正当化する。

人は自由を恐れない。他人からの評価を恐れている。他人からの評価によって生殺与奪が握られているわけではないことが明らかなら、ほとんどの人は自由を使いこなすことができるのは明らかだ。それに、自由を与えられた途端、同僚を金属バットで殴りつけて金を奪い取る奴らが多数派を占めているわけではないことも、明白であるように思う。

もちろん、自由を組織化する方法を身につけるにはトレーニングが必要かもしれない。ただ、それはハンコリレーをしたり、誰も読まない日報を書き続けたりすることとはなんの関係もない。

また、「ソ連式の中枢組織が、複雑な組織や現実を全て把握し、全てをコントロールすることは可能である」という発想も根強い。ソ連が崩壊しても、そのイデオロギーは死ななかったらしい。

何はともあれ、こういうイデオロギーを変えることはむずかしい。僕はティール組織という発想に期待していたわけだが、残念ながら共産主義と同じカテゴリーに分類されてしまったように思う。

誰もギリシャやアルゼンチンが財政破綻しても「ほれみろ、資本主義なんてうまくいかないじゃないか!」と言わないし、大企業の赤字のニュースを見て「ほれみろトップダウンの組織なんざうまくいかないのさ!」と言わない。

あるいはDX化に失敗している数多の企業(成功している企業なんて一握りのように見えるがどうなのだろうか?)を見て「DX化なんてゴミじゃね?」とは言わない。

それでもティール組織を目指して取り組んだほんの一握りの失敗例を見て「ほれみろ、ティール組織なんて無理なんだよ!」と言うのだ。

要は、何を信じているか?という問題でしかない。信じているものの失敗には「何か特別な理由があり、それは例外的な事例」と考え、信じていないものの失敗には「そのシステムに内在する根本的な欠陥」であるとみなす。これは信じているものを正当化したいという人間の根本的な欲望に根ざしている。

これはどうしようもないのだろうか? たぶんそんなことはない。その人が持つ信仰と極端に矛盾しない形で少しずつ信仰をずらすことはできると思う。まぁ大変だけどね。

なんにせよ人の信仰はなかなか変わらない。あれこれ悩むのはやめた方がいいかもね。

この記事が参加している募集

仕事について話そう

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!