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どこにでも住めるとしたら、自動車がない街に住みたい

もうすぐ3歳になる息子を、僕は道路で10秒と目を離すことができない。車に轢かれて死ぬ可能性があるからだ。

そろそろ彼もそのことを学習しているだろう。しかし、万が一ということもある。万が一を引き当ててしまったとき、取り返しがつかなくなるなら、そんなリスクは犯したくないのが普通だ。

自動車なんてなければ。そう願わずにいることは難しい。

もちろん、ほとんど自動車のない田舎に引っ越すことは可能だ。しかし、仕事の都合もあれば、友達や親戚との付き合いもある。それに豆腐を手に入れるために車を2時間も走らせなければならないような場所は不便で仕方がない。全てを自給自足することもできなくもないが、やはりハードルが高い。

考えてみれば、三丁目の夕日的な時代なら、あるいはもっと昔の世界なら、自動車がそこら中を走り回っている街は稀だったかもしれない。それでも、近所の豆腐屋で豆腐は手に入った。子どもは誘拐されるかもしれないし、毒のあるキノコを食うかもしれないし、川に落ちるかもしれないけれど、そういう危険のある場所は少なかったはずだ。

今は違う。僕たちを簡単に殺すことが出来る機械が我が物顔で道路を占拠しているせいで、歩行者はいつだって恐る恐る道路を渡らなければならない。

確かに、トラックによって運ばれてきたコンビニ弁当を食って僕たちは生きている。「自動車憎し」の感情のままに全ての自動車をスクラップにすることはできない。それでも、もっと少なくできると思う。

週末にショッピングモールに出かけなくても、レジャー施設に出かけなくても、僕たちはもっと楽しい休日の過ごし方を知っている。近所の河原を散歩してみたり、公園で遊んだり、絵を描いたり、日曜大工に励んだり。それが貧しいことだとは全く思わない。むしろ進歩であるようとすら思う。

自動車の社会的コストが鑑みられることは少ない。「駐車場代が高いからレンタカーの方がお得」といった持論を展開する人はそこかしこにいても、人が死ぬ可能性が街中を走り回っているリスクについての話題で飲み会が盛り上がることはない。仕方のないこととして、僕たちの前提に組み込まれてしまっているのだ。

別に僕たちはどこにだって住める。嫌なら出ていけばいい。それはその通り。しかし、同時に、いま暮らしている街を変えていくこともできる。「どこにでも住めるとしたら」というテーマでnoteを書くことは、半ば自分が暮らす街を変えていく望みを捨て去る行為と言えるのかもしれない。

僕が暮らす街を自動車まみれにすることに、僕は同意したことはない。もし、民主主義というシステムが存在するなら、それは自分の暮らす街を変えていくチャンスを有していることを意味するはずだ。僕は変えてみたい。どうすれば実現できるのかはわからないが、それでも、願いだけは表明しておこうと思う。

子どもも大人も自由に走り回れる。それでいて、近所で豆腐が手に入る街。どこにでも住めるとしたら、僕はそういう街に住みたいと思う。それが僕の暮らす街の、少し先の未来であったなら、これほど嬉しいことはない。

#どこでも住めるとしたら

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