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面白い人生に、常識人はいらない

『ホグワーツレガシー』の発売は明日なのだけれど、僕は一昨日からプレイし始めた。72時間早期アクセス権という予約特典に釣られたからだ。

ゲームはまだ始めたばかりで、感想はまたそのうち書きたいと思うのだけれど、どうしてもひとこと言いたい部分がある。他の点は今のところ最高なゲームなのだけれど、1点だけ納得できないのだ。

それは「主人公がつまらん」という点だ。あまりにも常識人過ぎる。

真面目で、謙虚で、人当たりが良い。ホグワーツの5年生は設定上は15歳かそこらの中学生なのに、思春期特有のキレ芸を発揮することもなく、営業一筋10年の証券マンみたいに毒にも薬にもならないような話術で、上手に世渡りしている。

僕は面白い物語には「え? そんなことしちゃうの?」が重要だと考えているのだが、常識人な主人公にはそれがない。周囲に流されるがままに予定調和なストーリーが展開し、主人公がストーリーに対して積極的にアプローチすることがないのだ。

「オープンワールドゲーなのだから無個性であるべき」という反論も考えられる。だが僕は無個性を貫きたいなら、リンクやマリオ、レッドのように一言も喋らない徹底的な無個性にすべきだと思う。主人公が完全に空っぽならば、それはそれで世界が主人公であると解釈して納得して楽しめる。しかし、中途半端に実態があるようなそぶりを見せながら、中身はスカスカな主人公を操るのは、どうにも面白くない。

「この感覚、最近どこかで味わった」と思ったら、『スカーレット・ネクサス』のユイト編をプレイしたときだった。スカーレット・ネクサスはダブル主人公で、2つのパターンのストーリーをプレイできる。僕はカサネ編からスタートして、カサネやカサネのパーティのぶっとんだ個性に惚れ惚れした後、ユイト編のパーティの優等生ぶりに落胆して、思わずコントローラーを投げそうになったのを覚えている。

同じオープンワールドゲーでも、『サイバーパンク2077』のVの個性が好きだった。基本はいい奴なんだが、いつも悪態をついていて、実力行使も辞さない。そういう人間味あふれる性格が好きだった。必ずしも僕自身と似ているわけではない。それでもVの人格をインストールして、世界に没入できた。愛されるべき個性があれば、いかにぶっ飛んでいようが、感情移入できる。逆に証券マンのような(無)個性ならば、僕は愛することはできない。

この感覚は、日常生活においても同様だ。人当たりの良い常識人の側面は誰しもが持っていると思うが、その人格だけでコミュニケーションをとっているとつまらない。訳のわからない人と付き合っている方が楽しいのだ。

とは言え、僕もついつい常識人っぽく振る舞ってしまう。その方が楽だからだ。ホグワーツレガシーをプレイしているともう常識人として生きるのはやめようかと、そんな気すらしてきた。これが同族嫌悪という奴だろうか。

物語と同じように、世界に重要な変化を起こせるのは常識人ではなく変な奴だ。僕はあれこれと変化を起こしたい。ならば常識人として生きるわけにはいかない。

うん。常識人やめるわ。

きっとこの先も、ホグワーツレガシーの主人公は常識人のままだろうが、僕は反面教師として、このゲームをプレイする。主人公よ。お前は常識人として世界に流されていろ。僕は別の道を行く。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!