贈与という、あまりある欲望

中学生の17人に1人。高校生の24人に1人がヤングケアラーだとテレビでやっていた。アンケート方法がわからないので、やや怪しい数値ではあるものの、まぁきっと増えているんだろうなぁと思う。

ブッシュマンの社会にはヤングケアラーは存在するだろうか? 知らないけれど、多分いないと思う。

彼らは当たり前のようにみんなで年寄りを介護するのだろう。知らんけど。スクールカウンセラーも存在しないだろうし、デイサービスも存在しないだろうし、介護保険制度もないだろうし、階段を登る車椅子もないだろうけど、姥捨山が予約で埋まるようなこともないと思う。知らんけど。

そもそも年寄りの世話をするというのは、究極の贈与なわけだ。贈与で成り立っている人たちなら、自然と世話ができるだろうけれども、僕たちは違う。贈与経済の領域を全て貨幣のやりとりの中に押し込めようとする社会では、貨幣の価値観と相入れない年寄りの世話をする人がいなくなるのは当たり前の話だ。

そして、僕たちの中にある贈与したいという欲望は、圧縮されて、贈与を許された場所で解放される。親戚中から集まった僕の息子へのクリスマスプレゼントの山を見て、僕は息子がまるで『ハリーポッター』のダドリーになったような気分だった(悲しいかな、贈与すらプラスチック商品へ、我々の貨幣経済では置き換わっていく)。

要するに、食料の50%が捨てられているのに飢える人が存在するという問題と、その構図は同じだ。贈与したいという欲望は有り余っているのに、贈与を受けられないヤングケアラーとその親がたくさんいるのだ。

道徳や強制を抜きにして、人に何かを与えたり、親切にしたりすれば、それだけで嬉しい。電車で席を譲ろうとして、断られた方が嬉しいという人はホモエコノミクス以外に存在しないだろう。人間は利己的でもあって利他的でもあって、その動機は混ざり合って溶けている。2つを区別するというクレイジーな発想がなければ、ポカンと口を開けながら贈与し合っていたのだ。ほんの少しでも利己的な心理が存在したなら、「やはり偽善!人間は利己的だ!」と叫ばれてしまう世の中では、本当に性悪説というカルト宗教の強さを感じる。

性悪説を主張しなければ、貨幣経済も、国家も、前提から崩壊するので、政治家は性悪説を唱え続ける。性悪説に則ればどうなるか? 市役所職員の給料をあげて、人数を増やして、講習をやって、認証マークを作るしかない(パーキンソンさんは自分の法則と合致する事例をたくさん見つけて、天国でニンマリしていると思う)。給料アップと、講習と、認証マークが何かを解決しているところを見かけたことがある人は、名乗り出て欲しい。

人間の贈与の領域を削っていけば、社会は歪んでいく。全てを財とサービスで成立させるというアダムスミスの妄想を社会全体で本気で追い求めている僕たちは、いつか崩壊してしまうのだろうか? いや、きっと贈与と創意工夫で、人間はなんとかしてしまう。資本主義というごっこ遊びを、影から贈与で支えるために、今日も僕はアダムスミスにステーキを焼く。

ヤングケアラーという人たちは、そういう社会の犠牲者なんだろうなぁ。もっと贈与を受け取ることと、与えることが、当たり前にできる世の中になれば良いのになぁ。それは金が存在しなくて、ブルシットジョブも存在しないユートピアなのだが、そこでしかヤングケアラー問題は解決しない。貨幣経済と贈与は相性が悪すぎる。贈与でしか解決できない問題は山ほどあるというのに。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!