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子どもが我慢しなければならない時代

生垣に咲いたヤエヤマブキの花を見て、3歳半の息子は言った。「ちぎっていい?」と。

もちろん、ダメに決まっている。ヤエヤマブキは他所のマンションの敷地内にあり、人の手が加わった園芸品種だ。枝を切り、水をやる誰かが確実に存在している。

「んー、これは誰かが大事にしているお花やから、ちぎったらかわいそうちゃう?」

しかし、子どもを育てたことのある人なら知っているように、これで納得する3歳児など存在しない

「なんでなん!」「いいやろ!」「いつもお花ちぎってるやん!」と駄々をこねる息子に対して、僕はしどろもどろになりながら反論することになる。そして「ほら、電車みに行かな!」「競争しよう!」と気を散らす作戦も当然の如くうまくいかない。

そうこうしている間に、息子は無理やり花をちぎってしまった。

やっちまったもんはしょうがねぇ。

ということで僕たちはそそくさとその場を後にした。

この手のやり取りは、実を言うとよくある。息子はお花を見れば「ちぎっていい?」とか「持って帰りたい」とかなんとか言ってくるのが常だ。

花に限った話ではない。例えばショッピングモールを歩いていたら、気になったものは何でもかんでも手に取って遊ぼうとする。しかし、親からすれば気が気ではない。もし商品を開封したり、汚したり、傷つけてしまえば最後、購入という形で責任を取るのが親としての最低限の責務なのだ。数十円の駄菓子ならまだしも、ショッピングモールには数千円の商品が並んでいるのが普通だろう。だから親は「触ったらあかん!」と好奇心に駆られた子どもをヒヤヒヤしながら怒鳴りつける羽目になる。

そして、おもちゃを見ればあれも欲しいこれも欲しいと息子は要求してくる。もちろん、全てを購入していたら、金と場所がいくらあっても足りない。つまり「この前買ったばっかりやろ!」と言って再び子どもを怒鳴りつけなければならない。

子どもと一日中、街を歩いたら、何度も何度も子どもに我慢を強いることになる。子どもは次第に不機嫌になり、「どうせ何しても怒られる」と不貞腐れ、好奇心を失っていく。その道の先で主体性がないとかなんとか文句を言われる新入社員が誕生するのだろう。

ある日、僕はふと気づいた。「なんでこんなことになっているのだ?」と。

仮に僕が狩猟採集民の父親だったとしよう。息子が道端にある花をちぎろうが、小石で遊ぼうが、ほとんどの場合「好きにすればいい」と放置できたのではないだろうか。

毒のある植物や虫、危険な場所をいくつか教え込めば、あとはほとんど自由なはずだ。それは恐らく現代において車を避けて信号を守り、ホームから落ちないように教え込むのと同じ程度か、下手すればもっと簡単なのではないだろうか?

他人の持ち物に対しても同様である。3歳児が誰かが捕まえた魚の干物を見つけたとすれば、その持ち主は「持って帰っていいよ」と許してくれるに違いない。ショッピングモールの店員がそれをしようとすれば上司に伺いを立てた上、そして当然の如く断られるであろうというのに。

そう考えれば、これほどまでに子どもに我慢を強いなければならない時代は、過去になかったのではないか?と感じる。

ありとあらゆるものが所有され、それを欲しがる子供に好きに分け与えることは自殺行為となった。敷地の境界も曖昧で、会計も雑で、個人事業主がほとんどだった時代なら、まだ多少のゆとりはあっただろう。今やその辺の芝生にすら柵が張り巡らされ、公園自転車を停めているだけで撤去される。

所有とは略奪であるとプルードンは言ったが、その通りかもしれない。所有することはみんなの財産を奪っていくことを意味する。そして、逆に自分の所有物以外、誰も面倒を見なくなれば、公共の場に落ちているゴミのようなものも誰も拾わなくなる。

もちろん、全てを共有にするような世界はそれはそれで住みにくい。自分だけの財産が心の拠り所になるようなことだってある。要するに個人所有と共有のバランスの問題だ。今のバランスが最適であるとは、僕には思えない。

子どもができるだけ我慢しなくていい時代になって欲しい。もちろん、全く相手の気持ちを鑑みる必要がない社会というのもあり得ないが、今は明らかに我慢が過剰だ。

息子は自由に育ってほしい。僕も自由に暮らしたい。自由の時代はいつやってくるのだろうか。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!