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僕は非効率が嫌いだ

毎月10日になったら、僕は軽トラで取引先のところへ集金をして回る。あるところは現金で、あるところは小切手で、あるところは手形で、買掛金をチャラにしてくる。

誰しもが抱く疑問は次のようなものだ。「振り込みじゃダメなのか?」と。

もちろん僕はその疑問を社長に投げかけたことがある。すると「手数料が高いからなぁ」と言われた。

このとき、一般的な感覚の持ち主であれば、振り込み手数料を片方の天秤に載せ、もう片方にガソリン代、僕の人件費、小切手帳の価格、手形不渡のリスク等を載せて比較する。

天秤は恐らく、ギリギリ振り込み手数料の方が高いと結論づける。結局「まぁ今まで通り集金した方がいいね」となる。

しかし、僕はこの天秤そのものに対して、とある違和感を抱かずにはいられなかった。

僕が集金をしにいくとき、わざわざ地中から掘り出してきた化石燃料を燃やして、わざわざ鉄の塊を転がす必要がある。ここに至るまでには膨大な労働と資源が浪費されている。

一方で、銀行振り込みには、事務員がわずかにキーボードを叩き、銀行のサーバーがわずかに熱を吐き出す程度の労働と資源しか必要としない。しかもそのコストは集金に行った場合でも、そのお金は銀行に振り込まれるのだから、後からどうせ必要なコストだ。

つまり明らかに銀行振り込みの方が、人類全体として見たときに労働と資源を浪費しない。それなのに、「お金」という架空の数値を基準とすれば、なぜか化石燃料を燃やして鉄の塊を転がした方が効率がいいということになる。

これは「お金」というシステムのどうしようもない不具合であり、スキャンダルではないだろうか? お金とは僕たちの活動をスムーズに組織化するための唯一無二のツールであると喧伝されているというのに、実際のところは無駄製造機なのだ。

こういうケースは他にもある。例えば、僕たちの周りにはわざわざ海外から取り寄せた輸入木材が溢れかえっているわけだが、その一方で日本中には伐採されずに放置される木が大量にあるという問題だ。どう考えても国内で伐採して国内で使った方が効率がいいのにもかかわらず、お金を基準にした結果、なぜか海外から仕入れた方が効率がいいということになる。わけがわからない。

あれこれの惨事便乗型の商売や軍需産業も同様だ。お金を基準に考えれば、惨事や戦争が起きた方が嬉しいというのは、システムの不具合であると言っていい。

僕たちはお金を追及しなければならないのに、お金を追及することは端的に効率が悪いのだ。

もし、世界からお金が消え去ったなら? つまり僕たちがお金を追及しなくても良くなったら? 木材をわざわざ外国から取り寄せる必要もない。極力、トラックを走らせる手間も資源も節約しようとするだろうし、そもそも集金も銀行もない。惨事も戦争も必要ない。

僕は非効率が嫌いだ。FAXなんて比じゃないくらいに非効率なこのお金というシステムは、もっと攻撃を受けてもいいと思う。そして歴史の闇に葬り去ればいい。

日本ではまだまだ現役のFAXがスミソニアン博物館では遺物として展示されているというのは有名な話だ。僕はスミソニアン博物館に、お金そのものが並ぶ日を夢見てしまう。「昔はお金というものをみんなが信じて、非効率なことに馬鹿みたいに邁進していました」という学芸員の説明を受けて、きっと子どもたちは「キャハハハハ、昔の人ってバカなのねwww」と高笑いするだろう。学芸員は苦笑いしながらも「ほんとよね」と同意してしまうはずだ。

その日が来るまで、僕はお金を回収するために鉄の塊をわざわざ転がすだろう。いつか集金のための最短ルートを見つけ出し、非効率な業務を極限まで効率化しようとするだろう。小さな効率化ゲームに夢中になって、大きな非効率に目を瞑る。それが人生なのかもしれないね。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!