自分で痛い目を見ていない禁止は、どこかで限界がくる

最近、息子がマリオカートにハマっている。マリオカートにハマりすぎて幼稚園に行きたがらず、飯も食いたがらない。いま、息子にとっての理想の生活はお菓子だけ食ってマリオカートしていることなのだろう。

見かねた妻は息子に対して声を荒げ、叱りつける。

「ゲームばっかりしないで」
「朝からお菓子なんか食べないで」
「ご飯はしっかり食べて」

一方で僕は横から控えめに「せやな」と援護射撃を行うだけ。それには理由がある。

僕は1日10時間以上ゲームをするようなこともあるし、朝に腹が減ったらお菓子を食べることもある。昼飯はたいてい抜いているし、昼食べたときは夜飯はつまむ程度で済ますことが多い。

「お前が言うな」とは、このことである。

だから僕はほぼ子どもに対して禁止をしない。僕がムカつくことをしたらキレるのと、死にそうなときは止めるくらいだ。

もちろんこれは妻と全く教育方針が異なる。夫婦で教育方針が異なることをネガティブに捉える人もいるが、僕はポジティブに捉えている。

大人が子どもを叱りつけるとき、それは論理的に考えれば議論の余地がない決定事項であるかのように装う。その結果、子どもに対して世間の大人たちは完全に意見が一致しているかのような印象を与えてしまう。もちろん、そんなわけがない。

僕は論理的思考の前提には価値観の問題があることや、それが一致していないのが普通であるという現実を家庭内で示しておいた方がいいと考える。

それに、子どもの頃にされた禁止なんて大きくなれば即座に破られるのが普通だ。僕は小学生の頃、風呂に入っても頭を洗わなかったし、歯も磨かなかった。しかし、それだとフケまみれになることや、虫歯になることを学習した後で、ようやくの必要性を認めた。

一人暮らしを始めてからは部屋を散らかし、ゴミを溜め、ラーメンばかり食って、ゲームばかりやって、怠惰の極みを享受した。その後、整理整頓の必要性と食生活の重要性などを学んだ。

自分で痛い目を見ていない禁止は、どこかで限界が来る。僕はそれは遅いよりも早い方がいいと思っている。

そして最終的に、人とは違うルールで生きることもあり得る。僕は三食食う必要性を感じないし、お菓子とご飯の区別を設ける必要性も感じない。それで病気になったとして、ちゃんと躾けてくれなかった親を責め立てるようなことはあり得ない。責めるべきは自分であるが、自分の選択であるなら後悔はないだろう。

三つ子の魂百までと言うが、僕は何歳になっても自分で学んで考えて行動パターンを変えてきた。それらが三歳で全て決定されていたなんて、どうすれば信じられるだろうか。

人間はずっと自由で、勝手に学ぶ。自分で自分のルールを作ることができる。社会のルールを守るか守らないかを自分なりに選択することもできる。誰しもそうやって生きている。

死ななかったらなんとかなるさ。

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