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労働時間削減を大義名分にしよう

余暇のない金か? それとも金のない余暇か?
ホモ・ネーモ

Googleで「労働時間削減」と検索しようとすると、続くキーワードとして「メリット」がサジェストされる。

検索してみると、どこそこ大学の研究で労働時間の削減が生産性を高めることがわかった(だから、労働時間を削減すべき!)とか、実はそうとも限らない(だから労働時間を減らすべきではない!)とか、そういうみみっちい議論を目にすることになる。

僕はもっと大きな問題点を指摘したい。なぜ、生産性が高まるのでなければ労働時間を削減してはならないかのように議論が進められているのか?という問題点だ。

要するにここでは、「生産性を追及すること」は「議論の余地のない当然の義務」であって、「労働時間削減」は何か「それを正当化できる理由がなければ実施されるべきではないもの」と前提されている。

この前提を僕は2つの観点から破壊してみたい。

まず1つ目の観点は「生産性なんてどうでもいいんじゃね?」という主張によってだ。

僕は「生産性」が総生産量を意味するのかなのか、時間あたりの生産性を意味するのか、といった疑問点を提示して重箱の隅を突くようなことはしない。どっちでもいいからだ。

そもそも「生産」が金を得ることを意味するのか、文字通り野菜やテーブルを生産することを意味するのか、あるいはケアや運搬、メンテナンス労働も含めて広い意味での生産を意味するのか?などといった問題にも触れない。どうでもいいからだ。

いずれにせよ、僕は今以上に何かを生産する必要があるとは到底思えないのだ。だから人類にとって生産性なんてどうでもいいと思っている。

そしてもう1点は「休みが増えることは無条件で良いことではないのか?」という観点だ。

日がな一日ホグワーツレガシーをプレイすることとか、家族とピザを焼いて食うことか、昼寝をすることとか、友達とダラダラと酒を飲むこととか、そういう僕にとっての究極の目的(それがないなら生きている意味がないとすら感じる目的)は、十分な休日がないと果たすことはできない。ならば、休日が増えることは無条件で良いことなのだ。

結局のところ、はじめの質問が間違っている。「労働時間を削減すれば、生産性が上がるのか?」ではなく、「生産性を上げることは、労働時間削減につながるのか?」を問わなければならない。

労働時間削減につながるのであれば、生産性は上げた方がいいし、そうでないなら生産性なんてものを気にする必要はない。

全ての考えの基準点をずらすのだ。いまは「金」とか「生産性」といったものによって支配されているところを「余暇」にするのだ。

そうしなければ、僕たちは休むことができない。

僕はホワイトカラーの現場もブルーカラーの現場も両方体験したことがあるわけだが、気づいたことがある。どいつもこいつもダラダラと仕事をしていることだ。

いや、だからと言って「もっとテキパキと働けよお前ら」と言いたいわけではない。彼らも必要に迫られればテキパキと働く。でも、普段からそうしないのは、どうせ早く仕事を終えても1日8時間(かそれ以上)は職場にいなければならないからだ。

これは端的に言って悲劇だ。本来4時間で終わる仕事をダラダラ8時間以上かけてやっているからだ。それでも「やることないので休んで良いですか?」とは言えない。

なぜなら、残った時間で生産性を高められる可能性は決して消えないからだ。「生産性」が至上目的であったとき、生産性を高められる可能性は常に追及しなければならない。

だが、「余暇」が至上目的であったならどうだろうか? やることがなくなった途端に帰ることが道徳的に許される。というか、そもそも仕事に行く必要すらない。「暇になったら仕事をしにいく」とか「にっちもさっちもいかなくなったから仕事をする」とか、そういう基準で仕事ができるようになるのだ。

うん。そっちの方がいい。

労働時間削減は素晴らしい。労働時間削減につながらない効率化にはなんの意味もない。余暇を愛し、余暇を信仰し、余暇の神と一体化しよう。

なんなら余暇教を立ち上げてもいいかもしれない。うん、そうしてみよう。

余暇のない金はいらない。金のない余暇を思いっきり楽しんでやるのさ。

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