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嫌いなものについて語ろうぜ

好きなものを語るより、嫌いなものを語る方が、人は饒舌になれる。人の言語は悪口のために進化したという説もあるくらいなのだ。悪口は本能に刻み込まれた快楽行動であり、食事や睡眠、大好きな相手とのセックスに負けず劣らない幸福なのである。

僕は悪口を言っているとき最も「生きてる」っていう感じがする。だから書き連ねてみようと思う。これは僕の命の更新作業である。



嫌いなもの1:キャリーケースを引く観光客

キャリーケースを引く観光客は荷物を運びたいのではない。キャリーケースをコロコロしたいのである。これには一分の疑いもない。なぜなら、キャリーケースは明らかに荷物を運ぶにあたって非効率だからである。常識的に考えて、リュックかボストンバックでいいのだ。

キャリーケースをわざわざ階段で息切れしながら持ち上げたり、電車やお店で肩身の狭い思いをしたり、エレベーターをわざわざ探しに行ったりするのだ。「コロコロしたい」というたったそれだけの理由のために、途方もない苦行を耐えるのである。

むろん、我慢するのは本人だけではない。ベビーカーの中の赤ん坊をあやしつけながら永遠に感じられるエレベーターの待ち時間を過ごす僕や、仕事終わりでくたびれた体で電車に揺られている僕も、彼らの「コロコロしたい」を満たすために我慢を強いられる。狭い。通りにくい。なんか腹たってくる。

まだストロングゼロを飲みながら座席に転がって、前の客に悪態をついているおっさんの方が可愛げがある。電車でストロングゼロを飲みながら客に悪態をつきたいと思ったら、電車でストロングゼロを飲みながら客に悪態をつかなければならないからだ。しかし、キャリーケースをコロコロするなら、わざわざ旅行に行く必要はない。だから余計に腹が立ってくる。

キャリーケースをコロコロしたいのならば近所の公園ですればいいのである。それで旅行気分を高めてから荷物をリュックに移し替えて、飛行機に乗ればいい。そうすれば周りも本人も我慢せずに済む。

どうせ無意味に細長いドライヤーとか、シャンプーとか、やりもしないトランプとか、そういうものが入っているのである。全て備え付けでいいのだ。というか、1日や2日くらいシャンプーしなくても構わないし、ドライヤーなんてする必要はない。荷物を削ればリュックで行けるし、削らなくてもボストンバックのようなものを持ち運べばいい。重たいと思うのは気のせいである。重たいと思わなければ重たくはないが、キャリーケースは誰がどう解釈しようが物理的に場所を取り過ぎる。本人にとっても周りにとっても邪魔なのだ。

国はキャリーケース禁止法を制定すべきである。せめて大阪府の条例として採用されないものだろうか。「コロコロしたい」という謎の願望に支配され公共の場で奇行を繰り返す男女は、さながらアヘン中毒者のようなものであって、国家にとって明らかに損失である。


嫌いなものその2:King Gnuの歌詞

作詞作曲を担当しているヒゲ男、常田大樹はそもそも鼻につく。なにやら音楽エリートでイケメン。インタビューされてるとこをいくつか見たことあるのだが、やたらとアーティスト気取りだ。よくわからない現代アートの画集とかを見て「これでインスピレーションを‥」とか言ってるのである。「俺たちの音楽のルーツは洋楽。邦楽は聞いたことない」とか言っているのである。うん。鼻につく。

そして曲を聴く。かっこいいが、よくよく歌詞を見てみる。やる気はあるんか?と聞きたくなる。

恐らくやる気はない。洋楽オタクの彼にとって、歌詞など「ラララ」の変調に過ぎず、韻を踏む口実のようなものであり、本当は考えたくないのではないだろうか? そう感じずにはいられない。恐らく5分か6分くらいでちゃちゃっとそれっぽい言葉をはめて「もうこんなもんでいいやろ」と妥協し、さっさとギターリフを弾き始めるヒゲ面が目に浮かぶ。

だが、そのことが公になることは彼のアーティスト気質が許さない。彼のパブリックイメージを守るためにはシニカルなメタファーや深いメッセージを散りばめる詩人という印象を残したい。でも歌詞には興味がない。ではどうするのか。

言うべきことが何もないことがバレないように恐る恐る意味深な言葉で埋め尽くす。これしかないのだ。そうしておけば、彼の髭と経歴に騙された信者は「うん、何か深いことを言っている」とか「この曲は生と死についての深いメッセージだ」とか解釈をしてくれるのである。

代表曲の『白日』を見てみよう。

時には誰かを
知らず知らずのうちに
傷つけてしまったり
失ったりして初めて
犯した罪を知る

「ふーん、だからなに?」「そらそうやろなぁ」以上の印象を抱くことは難しい。恐らく出だしのメロディが「時には」という歌詞と同時に常田の頭の中に登場してきて、その続きは歌いながら適当に考え、それなりに辻褄を合わせたのだろう。

戻れないよ、昔のようには
煌めいて見えたとしても
明日へと歩き出さなきゃ
雪が降り頻ろうとも

相変わらず「だからなに?」の応酬である。そして思い出したように情景描写を挟むあたりが、常田という人間の浅ましさを際立たせる。「情景描写やっといたら、なんかええ感じなんやろ? 知らんけど」というノリで「雪が降り頻ろうとも」とかいう浅薄な情景描写を書き足すのである。中学生の頃、音楽の授業で歌詞を書くという体験をしたことがあるのだが、深いメッセージ性を気取ろうとしている奴はだいたいこういうことを書いていた気がする。中学生のお勉強のレベルで、メジャーデビューしているのだから、常田は大したものである。

今の僕には
何ができるの?
何になれるの?
誰かのために生きるなら
正しいことばかり
言ってらんないよな
どこかの街で
また出逢えたら
僕の名前を
覚えていますか?
その頃にはきっと
春風が吹くだろう

ダメだ。歌詞だけ読んでいるとイライラしてくる。日本語を理解できない外国人の気持ちになって音楽を聴くというのが、King Gnuの正しい楽しみ方だろう。

常田。お前はまず日本語を勉強しなおした方がいい。現代アートの画集ではなく、国語の教科書を開いて金子みすゞでも音読しておけ。それが嫌なら作詞家を呼んでこい。「歌詞は興味ないので書きません」と言って作詞家を読んできたら、僕はお前に惚れると思う。


嫌いなものその3:軍師気取りのおっさん

時流を読み、論理的思考と鋭い直感で世間の一歩先をゆく計算高い軍師を気取らずにいることは、年齢を重ねていくと共に難しくなっていくのだろう。

「俺は運悪く大衆の地位に甘んじているものの、それは合理的な計算の上であえて辿り着いた結論に過ぎない。本来、俺は大衆とは知的能力において大きく差別化された人間であり、世界の一流の政治家や経営者たちとも遜色のないのである」と彼は思い込んでいる。僕はそう思い込んでいることが大衆の条件に他ならないというありきたりな指摘をしたいわけではなく、単にそういうおっさんがムカつくということを言いたいのである。

おっさんは大抵「俺が独自に到達した高度な意見」を持っていて、それを自慢げに語り出すわけだが、たいていそれはヤフーニュースに書いてあることの受け売りである。あるいはせいぜいNewsPicksあたりだろうか。いずれにせよ、大して面白いことは語らないのである。

そして隙あらば太平洋戦争の話を始め、そのままウクライナの話と核武装の話を始めるのである。「ああしていれば勝ってた」とか「こうしたら日本は中国に勝てる」とかそういうことを語り出す(国民国家とは、国民が政府と自らを同一視する国家形態だが、そういう意味では軍師気取りのおっさんは、国民国家にとっては理想的な国民なのだろう)。

あと、おっさんは地政学という言葉を見ると鼻息を荒げずにはいられない。地政学。軍の会議で地図を広げて、チェスの駒のようなものをあれこれといじくりまわし「全軍を東へ‥」と意味ありげに指示をし「閣下それはできません!!」と反対する部下を「いいから、従うのだ」と押し切った結果、魔法のように戦況が好転していく‥そんなイメージの言葉だ。おっさんの下半身を刺激するのに、「地政学」以上の言葉はないだろう(そして、軍師気取りの病がさらに進行していけば、おっさんはマキャベリとか孫子を学び始める)。

別に構わないのである。好きに軍師を気取ってくれればいいのである。しかし、なんかムカつくのだ。なんというか、歴史とか地政学とか国際情勢に興味ないことが馬鹿の象徴であるかのように語るのが、ムカつくのだ。

僕は日常的にニュースを観ないし、政治史や戦争史には興味がないし、そもそも国家というものにあまり興味がない。どの党に投票するかもノリで決めるしそもそも投票に行かないことも多い。そういう人間は軍師気取りのおっさんからすれば典型的大衆だろう。大衆だろうが構わないのであるが、馬鹿にされるとムカつくのだ。あー、腹たってきたわ。



嫌いなものその4:子どもを叱っている人の隣にいる時間

親を含めた大人が複数人いて、3歳児くらいの子どもが1人いる状況を思い浮かべて欲しい。そして3歳児が何かをやらかして親に叱られているとする。それを僕が隣で見ているとする。これが嫌いなのだ。

親は基本的に道徳を子どもに押し付ける。それは絶対的に正しく、それを理解することは大人になるための必要条件であるかのように押し付ける。

親がそのスタンスを一貫しようとするならば、僕はその親に同意している素振りを見せなければならない。「大人サイドの見解は完全に一致している」と子どもに見せつけなければ「叱る」という行為は成立しないのだ。

隣で「別にええやん」とは言えば「叱る」は成立しない。これが「叱る」という行為の弱点である。だから僕は「叱る」という行為を避ける。というより、「叱る」という行為がどうにもしっくりこないのだ。僕は単に子どもにキレるのである。

「キレる」というのは、あくまで個人的な感情の発露に過ぎず、別に全ての大人が同じ気持ちである必要はない。故に「なんかママ怒ってるからとりあえず謝っとけ」と言えるのである。

世界は完全に統一された見解で支配されていると誤解することは、子どもにとって不幸なことに思える。世界は感情とその発露で成り立っていることを理解してもらうことはそれなりに必要なことではないだろうか。

もちろん僕は怒っているとき、そんな大義名分を脳裏に思い浮かべながら怒っているのではない。ただ怒りたいから怒るのである。

アンガーマネジメント系の言説とか、聞き上手を目指せ系の言説は、大事なことを忘れている。キレたり、喋り倒したりすることは、ある種の快感なのである。快感を取り上げないで欲しい。

キレなきゃむしろ人間じゃねぇ。


まとめ

さて、嫌いなものは枚挙に暇がないわけだが、僕だって仕事に家庭にと慌ただしく暇がない。今日のところはこのくらいにしておくわけだが、また次もやろうかしら。悪口を書くのは楽しい。みなさんもぜひ、やってみてはいかがだろうか。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!