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僕たちはディストピアに住んでいる【雑記】

思えば僕は真面目に生きすぎていた。灰色の男たちがつくったレールに従いすぎていた。でも僕は本当はレールをぶち壊したかった。

こんなことを言うと、レールのメリットや合理性、そこから外れることへのリスクを滾々と教えてくれる「現実世界へようこそ勢」が必ず現れる。僕はまるで自分が反抗期真っただ中の中学生のように扱われているような気分になる。もちろん、レールの良さを認めることは僕だってやぶさかではない。しかし、同時にそれはいつでも破壊可能なものであるべきなのだ。しょっちゅうレールを破壊していればトラブルの種だが、ずっと破壊できないことも同様にトラブルの種なのだ。

意見が食い違うとすれば「どこまで我慢すべきか?」だろう。

僕はもうこの世界は我慢の限界を迎えているように思う。資本主義という言葉がなにを意味するのかは合意を得られないが、ともかくとして資本主義なる理念が限界に差し掛かっていることに対しては、以前ほどの異論は見られなくなった(もちろん「オルタナティブはない」という意見はいまだにみられるわけだが)。

なら、この社会を一度レールから脱線させてみたい。僕は自分の人生をレールから脱線させて、さらに社会も脱線させたいのだ。はたから見てこれ以上の悪ふざけはない。でも大まじめだ。

自分の書いた本を「これは世界を変える!」と意気込んで、自分で売り込むために出版社を立ち上げる。家族も住宅ローンもあるのに。常人がこのエピソードだけを聞いたなら、精神病棟への入院を勧めると思う。妄想に憑りつかれたイカれた男が、せっかく積み上げてきた人生を台無しにしようとしている、というわけだ。

僕がイカれているのだとすれば、それは世界の方がイカれているからだ。僕は自分がディストピアSFの主人公であるように感じている(これもまた僕がイカれているという主張に根拠を与えてしまうわけだが)。ディストピアSFの主人公は常に変わり者だ。ほかの人々はディストピア社会に適応して「こういうものだから・・・」といって日々を過ごす。しかし主人公は「いや、この世界はおかしい!」と声をあげて革命行動を起こそうとする(そしてたいてい失敗する)。

僕たちはディストピアSFを読めば常に主人公側に感情移入をする。「自分がこんな世界に生きていたら、主人公と同じように革命行動を起こすだろうなぁ」というわけだ。しかし実際はディストピアに暮らしていると、そこがディストピアだと気づかないのが普通だろう。

カズオ・イシグロの『わたしを離さないで』と『約束のネバーランド』はそういう観点から読むと面白い。両者は殺される運命の中で人間牧場で育てられるという設定は似ているが、『約ネバ』はそこから脱出するという革命行動を起こすのに対し、『わたしを離さないで』の方はせいぜいちょっと直談判するだけでほとんど死という運命に反抗する者はいなかった。

想像の中では僕たちは革命行動を起こす『約束のネバーランド』の主人公になる。だが、普段の僕たちは『わたしを離さないで』の登場人物のようにすべてを受け入れる。『わたしを離さないで』に対して「なんで逃げないの?」「もっと反抗すればいいのに?」といった感想を寄せる読者もいたが、その感想はおそらく僕たち自身に向けるべきなのだ。

僕たちはディストピアに住んでいる。この事実はまず受け入れた方がよさそうだ。そして、支配を受け入れるのか、支配する側にまわるのか(あるいはそう思い込んで自分の精神の健康をギリギリ保とうとするのか)、山奥に逃げるのか、破壊するのか。それは自由だ。

一度きりの人生である。どうせなら僕は少年漫画のように生きてみたいと思う。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!