「女性活躍」を叫ばねばならないほどに、女性は「活躍」していないのか?

なんとも不思議な現象だ。街を歩けば、そこら中で女性は活躍しているというのに。

スーパーのレジを打ち、ヒレカツ定食を提供し、歯医者の受付をし、子どもや老人の世話をし、ワクチンを打つのは、ほとんどが女性だ。

当たり前だが、全ての女性が郊外の一軒家で日がな一日Netflixを観て過ごしているわけではない。

朝は子どもの弁当と朝食を用意し、洗濯物を干してから家を出て、昼はパート先の定食屋でホールを切り盛りし、夕飯の買い物をして帰宅してからは、掃除機をかけて、洗濯物を取り込み、夕飯を準備し、食べ終われば洗い物を済ませて、ようやくNetflixにありつく‥そんな暮らしをする女性の方がきっと多い。

これ以上、どう活躍すればいいというのか? というくらい彼女は活躍しているにもかかわらず、残念ながら彼女は「活躍」しているとはみなされない。

なぜだろうか? それは彼女が年収107万円のパート主婦だからだ。

どうやら「活躍」とは高収入の仕事を意味し、正社員を意味し、管理職を意味していると思われる。たしかにそのような仕事は概ね男性が支配している。

デヴィッド・グレーバーの『ブルシット・ジョブ 』が正しいとすれば、高収入の管理職はブルシット・ジョブ である可能性が高い。つまり、あえて単純化すれば、高収入のブルシット・ジョブに就くのは男性であり、低収入のエッセンシャルワークに就くのは女性である傾向にある。

ブルシット・ジョブとは、本質的に女性には向いていない。なぜなら、女性には出産があるからだ。出産で、女性がブルシット・ジョブを休むと、その職場ではどんな悲劇が起きるだろうか?

想像してほしい。あなたの大嫌いな上司が1年間休むのだ。あなたが幸せな気持ちになること以外、なんの変化も起きないとは思わないだろうか?

上司にいちいち確認しなければならなかったことは、誰にも確認せずにこっそり進めることができるようになるし、口うるさい説教で時間を無駄にすることもなくなる。

するとどうなるか? その上司が必要なかったことが明らかとなり、上司の権威が失墜するのだ。ブルシット・ジョブとは、あたかもその人が必要であるかの如く振る舞うことに全力投球する仕事なのだから、必要ないことが知られれば、そのポジションに居続けることは難しくなる。

一方で、エッセンシャルワークならこのようなことは起きない。定食屋のパート主婦が1人抜ければ、一大事であり、店主は慌てて求人広告を出すか、知り合いの主婦をヘッドハンティングすることになる。だから、出産で抜けてもこのような仕事に就くパート主婦の名声は落ちない。

これは現代の管理職に限った話ではない。マキャベリが言うように領主や君主などは、本質的には不要な存在でありながら、あたかも自分が必要であるかのように人々に信じ込ませる仕事だ。だからこそ、女性は権力者になれないのだ。

さて、それでは、政府が叫ぶ「女性活躍」とやらが、徹底的に押し進められたとき、何が起きるか考えてみよう。

誕生するのは、一億総ブルシット社会だ。

もちろん、こんな社会は成立しない。誰かが定食屋でヒレカツを揚げなければならないし、公園のトイレを掃除しなければならないし、子どものオムツを変えなければならない。

仮に、定食屋で働くパート主婦が晴れてコンサルティングファームのマネージャーになり「活躍」したとして、その後、空いたポストに50代の経理部長が収まるようなことはあり得ない。

そうすればエッセンシャルワークの領域がどんどん人手不足に陥っていき、社会が機能しなくなっていくはずだ(そして、これは実際に今、起き始めていることだ)。

何かがおかしいと指摘しなければならない。

変えるべきは、パート主婦や、保育士、看護師、栄養士、クリーニング店の受付、スーパーのレジ打ち、コールセンターの受付を「活躍していない」とみなすその評価基準だ。

保育士は活躍しているが、低賃金なのだ。ならば、保育士をエリアマネージャーに昇格させることを目指すのではなく、保育士が安心して暮らせる賃金を保障することから始めなければならない。

収入が高い=活躍している、社会に貢献しているわけではない。むしろ逆だ。そのことが理解されていないから、頓珍漢なことが起きるのだ。

『ブルシット・ジョブ』を読め。話はそれからだ。

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