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『サイバーパンク エッジランナーズ』と『サイバーパンク』の違い

ゲームにどハマりした僕は「エッジランナーズ、観ないでか!(観ないでいられるか!)」と思っていた。

なので、わざわざネトフリ加入して『エッジランナーズ』を観た。

ジャンルを名づけるとすれば「新古典的ボーイミーツガール」。正直、面白かった。予定調和にほどほどのスパイスを加えて「抜け感」を演出してくれる展開は、米津玄師の音楽みたいに爽快感があった。

だが、どうしても納得できない点はある。それは「誰かのための自己犠牲」を美化しすぎていることだ。

物語の冒頭。デイヴィッドは母親の夢につき従わされるだけの、か弱い少年だった。彼が成長し、物語の終盤では命を投げ出してまで恋人ルーシーの夢を追い求めている。

「両者は似ているようで違う。そこに自分の意志があるからだ」というのが、この作品から発せられるメッセージだと思う。もちろんここでは、後者の生き方が肯定されえいる(両手を上げて賛成とまではいかないだろうが)。

僕はそのメッセージには賛同できない。誰かの夢のために生きることは悪くないものの、これだと結局ルーシーが、デイヴィッドの期待通りに生きる操り人形のようになってしまっていると感じたからだ。まるで、母親の期待通りに生きていたデイヴィッドのように。デイヴィッドは、自分の母親のように、パターナリズムを押し付けて、ルーシーを意のままに操ろうとしたのだ。

果たして、エンディング時のルーシーは幸せだったのだろうか? 僕にはそのようには見えない。夢だったとは言え、たかだか月への観光旅行のために恋人の命を失ったのだ。きっと札幌の時計台を見た時とは比べ物にならないようなガッカリ感を味わったのではないかと思う。

それに自らの手で月へのチケットを掴み取るというドラマと興奮を、デイヴィッドによって奪い去られてしまった。これは、釣り人にスシローの優待券を送りつけるような侮辱行為だと言っていい。

また、デイヴィッドの行動には、納得できない点が多い。サイバーサイコシス寸前までインプラントを入れて自分を強化する必要があったのか、視聴者は疑問視せざるを得ない。デイヴィッドはサンデヴィスタンだけでも十分に強かった。

メインの野望を受け継ぎたいという気持ちもわからないでもないが、死者の思いに引き摺られるよりも、目の前にいるルーシーと慎ましく幸せに生きればよかったのではないかと感じずにはいられない。お互いの体調をあれだけ思い遣っていたのだ。お互いのためにナイトシティの外にある荒野で幸せを掴むという選択肢があってもよかった。

思うにデイヴィッドは自己犠牲的なヒロイズムに酔っていた。それが「エッジ」を生きる若者特有の危うさであり、その生き様は確かに美しく見える。

けれども僕は、『サイバーパンク』本編のVのように、「自分のため」を堂々と生きる方が、カッコいいと思ってしまった。それに、ニーチェっぽく読み解けば、ヒロイズム的な自己犠牲も、所詮は「自己犠牲が欲しい」というエゴに過ぎないのだ。ならば、ヒロイズム的な仮面は滑稽に見えてくる。

もしかすると、『サイバーパンク』本編では、僕好みのプレイをした結果、そういうシナリオを選択しただけかもしれない。アニメ(や小説、映画、漫画など)とゲームの違いは、そこにある。自分好みの人生を生きられることが、ゲームの醍醐味だ(まぁ、ゲームといえどもある程度は制作者の思惑の中に収まってしまうものだけれども)。

やっぱり映像を観るだけよりも、ゲームをプレイする方が楽しいかもしれない。『サイバーパンク』もう一周するわ。

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