ハンナ・アレント『人間の条件』を読んで
コロナで1日中書斎に篭っていられる今、積読消化週間を開催中。2冊目はハンナ・アレント『人間の条件』だ。
最近、新訳出てたから買ったはいいけど、たぶん読んでもつまらんだろうなぁと思って放置していた。人間の行為を「労働」「仕事」「活動」に分けてウンタラカンタラ的な内容ということは知っていたが、そういう分け方が恣意的であまり意味がないような気がしていたし、尚且つ「人間の条件」というタイトルが押し付けがましい気がするからだ。
だが、最後まで読んだ。「やはり天下のアレント様」と感じる部分はいくらかあったものの、やはり初めの印象は大きく覆らなかった。
どうせ時間あるし、ちょっとまとめてみようか。
■僕がこれから書こうとしていること
『人間の条件』というタイトルは、いかにも説教くさい体育会系な自己啓発本の印象だ。「●●してこそ、人間だ!」みたいに、押し付けがましいことが書いてそうな雰囲気がする。だが、実際のところそこまでひどくはなかった。この本の正確なタイトルは『人間の条件の変遷』だと思う。つまりギリシアの時代から現代までで、「人間とは何か?」の条件がどのように移り変わってきたのかを、アレントは描写している。
人間が人間らしく生きるには、どんな行動を取るべきか? どんなことに関心を持つべきか? どんな価値観を抱くべきか? 僕たちはついつい「え? 食って寝て楽しかったらいいんじゃないの? うぇいw」みたいな感覚が歴史的な普遍性を持っていると思いこみがちなのであるが、意外とそうでもなく、時代精神みたいなものにかなり規定されている。そういう時代精神がどういう思想によって生み出され変遷していったのかを分析する本だった。思っていたほどに説教くさい本ではなく、文献学的なアカデミックな内容なのだ。
アカデミックな本としては、かなり面白く読めたと思う。例えば、かつては家庭内の問題だと蔑まれていた生命維持活動すなわち「労働」(経済と言ってもいい。経済という言葉がギリシア時代には家庭管理を意味していたというのは有名な話である)が、社会全体を覆い尽くしたことが国民国家という現象であり、人間そのものが生命維持するだけのちっぽけな労働人に成り果ててしまった…というプロセスの描写は、「さすが!」という鮮やかさだった。
だが、その裏側にあるアレントのイデオロギーみたいなものには、同意できないというのが本音だった。
僕は今からアレントが書いている文献学的な記述を要約するわけではない。その記述の裏側にあるアレントの人間観や自然観、労働観に対して文句を言いつつ、自分語りを展開していくつもりだ。
そのためにまずは、アレントの用語を一つひとつ見ていこう。アレントは、人間の条件を分析するにあたって、人間の生におけるスタンスを分類していく。この分類のうちのどれが優勢になって、どれが表に出てきたかというレンズで、アレントは世界を解釈していくのだ。
■観照的生活
あんまり見慣れない字面である。が、これがどうにもギリシアの哲学者にとっては最上級の価値を持っていたらしい。これが何を意味するのかは、けっきょく最後までいまいちピンとこなかったのだが、「山奥で黙々と座禅を組んで、真理に到達する」みたいなイメージで考えていいと思う。ソクラテスの裁判を経て、哲学者は「俗世間はクソ」的な価値観に至ったようだ。
最高級の人間は活動しないというのは、今とはかなり違う価値観である。僕たちは黙々と座禅を組んであれこれ思考を巡らせているだけの人を尊敬することはない。プライベートジェットで飛び回るCEOや実験に明け暮れる天才科学者を尊敬する(この価値観の転倒がどのように起きたのかというと、一言で言えば「望遠鏡の発明」らしい。まぁ詳しくは読んでくれ)。
■活動的生活
観照的生活に対置される形で定義されるのが、活動的生活だ。要するにギリシアの哲学者が蔑んでいたような、俗世間で右往左往する生活を意味する。これをさらにアレントは3つに分類する。
1.労働(labor)
これはアレントいわく、生命維持に必要な活動とのこと。本文の記述的には、主に、畑を耕して飯を作ることを指しているように思われるが、掃除、洗濯、メンテナンス労働的なものも含まれているようだ。現代的な意味で言えば、農業とケア労働とまとめて問題ないと思う。
ギリシアの市民たちがこれらを完全に奴隷へとアウトソースしていたのは有名な話で、彼らは当然、これらの労働を一人前の人間がやる仕事ではないと見下していた。
ギリシア大好きアレントもおおむねこの見方を踏襲しているように見える。
アレントは労働を「生物学的な生命の重荷」と呼んだ。よっぽど、皿洗いが嫌いだったのだろう。
p190の引用は少しわかりにくいが、ここにはアレントの自然観が現れでている。彼女にとって自然(人間以外の動物も含めて)とは、永遠の循環と停滞であった。創意工夫もなく、ただ生きるために生き、循環する、なんの生産性もない営みであった。
労働というのは単にこのサイクルの中に受動的に絡め取られるに過ぎないというわけだ。「自然舐めんな」という印象を抱かずにはいられないもののひとまずグッと堪えよう。
では、自然の永劫回帰という無限地獄から抜け出すものは何かといえば、直ちに自然物に分解してしまわない継続するモノを作ることだった。
2.仕事(work)
「労働と仕事っていっしょやんけw」となるのが一般的な感覚だと思うが、ここでいう「work」とは「作品(を作る)」とか「成果物(を作る)」的な意味と考えていい。要は長く持続するモノを作る営みをアレントは「仕事」と呼んだ。
つまりアーリオ・オーリオ・エ・ペペロンチーノを作るのは労働であって、テーブルを作るのは仕事なのだ。もちろん、持続というのも程度の問題であって、テーブルもいつかは腐るわけだが、まぁ持続を目的として作られているモノだと考えれば良いと思う。
アレントはこれを「世界を作り出す行為」として、労働よりも一段上に置いている(ここでいう「世界」とはイマイチよくわからなかったのだが、おそらく「自然」とか「地球」は世界たり得ず、人間が生み出したものを含む場所を世界と呼ぶのだと思う)。
余談なのだが、ここでアレントは労働を蔑みたいあまり、少し無理をしている。「テーブルを作るのは仕事であって、畑を作るのは労働である」という主張だ。
たぶん、農家に親を殺されたんだと思う。
アレントは、仕事をする人を「工作人」と読んだ。工作人の仕事は、要するに設備投資であり、基本的には労働を効率化するものだった。
「仕事」と「労働」は、「構想」という点においても差別化されるらしい。
ここにもアレントの労働蔑視を感じ取ることができる。当たり前だが農家も畑の完成形をイメージするし、料理人もそうだ。それがあたかもボケっと鼻水を垂らしながら体を動かしていれば勝手に小麦が取れて、気づいたらパンが焼けているかのように、アレントは扱う。農家だけではなく、料理人にも親を殺されたのだろう。
ただし、「仕事」には決定的に欠けているものがあるとアレントは指摘する。それは「意味」だ。「仕事」とは何らかの目的に奉仕するものであり、ある種の功利主義にとらわれた活動だ。鋤を作るのも、椅子を作るのも、効用とか効率化といった「有用性」のために行う仕事だ。だが、有用性そのものの有用性はなにか?という問いには、答えることができない。
要するに「神」が必要なのだ。もちろん現代では「効率化」そのものが神となっているわけなのだが、効率化そのものを神とするためにも、1つのプロセスが必要であった。それが言論とセットになった行為(action)なのだ。
3.行為(action)
訳によってはactionを「活動」とするケースもある。というか、「労働」「仕事」「活動」という訳が一般的だと思うし、こっちの方がしっくりくるのだが、講談社学術文庫に則って「行為」としよう。
ぶっちゃけこれが一番ピンときていない。ともかくこの複数性というのが鍵のようだ。何箇所か引用してみよう。
要するに、自発的な相違によって何かを初めて、言葉によってその行為を定義づけし、他者に開示する。このプロセス全体を「行為」とアレントは考えているのだろう。
ここで重要なのは、この行為が「自己PR」的なものである必要があると、アレントが考えていることだ。
要するに、自らの行為を正当なモノだと確信し邁進するためには何らかの「意味づけ」が必要であり、意味づけのためには他者と、他者に対する言論が必要であるということをアレントは言っている。
1~3をまとめると
いい感じにまとまっていたので引用しよう。
さて、色々とこの分類に不満がありつつも、それは置いておいて、これらの活動が展開する場としてアレントが用意した2つの分類のこともチェックしておこう。
■私的領域と公的領域
この2つの意味は字面通りに受け取ると明らかであるように感じるが、そうは問屋が卸さない。アレントは少しアクロバティックな解釈をしているのだ。
私的領域という言葉は、単に「家の中」という意味ではなく、食べたり、寝たり、家を建てたりといった関心ごとに集中する場として、アレントは使用している。「それは家の中とどう違うの?」と感じるわけだが、僕たちの社会においては、家の外側にまで私的領域が広がっていて社会全体を覆い尽くしているとアレントは指摘している。
つまり私たちの社会にとっての関心ごとは、とにもかくにも「人間が生きていくこと」に限定されてしまっているというのだ。経済活動と呼ばれるものが、食べ物を買ったり、家を買ったり、はたまた車を買ったり、生命維持に関するもので(つまり労働+仕事)埋め尽くされているわけだ。
「逆に、そうでない社会などありうるのか?」という印象を抱いてしまうが、ギリシアやローマではそうではなかったらしい。古代世界では、労働とは家庭内でさっさと奴隷が済ませてしまって、真っ当な人間は生命維持の必要性から解放されて「行為」あるいは「観照的生活」に集中するものとされていた。
逆にいうと、公的領域とは、生命維持の必要性から離れて、何やら交渉な「行為」に勤しむ場だった。これが現代では経済活動に覆われてしまってほとんど失われているらしい。そして、経済活動が社会全体を覆う社会形態として国民国家が存在するのだという。国民国家の主な関心ごとは、私的な富の保護と、富を追求する個人の保護だ。それ自体が究極的に、生命維持の必要性にとらわれているというわけだ。
この価値観の展開がどのように行われたのかというのは、望遠鏡、デカルト、数学、アルキメデス、色々とあったわけだが、詳しくは省略する。ここは面白かったので、ネタバレせずにおいておこう。
さて、とにかく僕はアレントに文句を言いたくて仕方ない。そして自分語りをしたくて仕方ないのである。前置きはこれくらいにしてやっていこう。
■アレントに言いたいこと
価値観が転倒していく歴史を分析する上では、「労働、仕事、行為」や「私的領域、公的領域」といった分類は悪くない。だが、人間という存在を理解するにあたってはこの分類は極めて偏ったモノであると言わざるを得ない。
例えば、畑仕事には生命維持という「労働」の側面だけではなく、積み上げという「仕事」の側面と、創意工夫や意味づけ、自己アピールといった「行為」の側面が含まれている。
畑仕事はボケっと前例を繰り返すだけではなく、経験と環境を積み上げて予測と計画を設け、次世代を建設していく営みだ。田んぼに生き様と個性が現れてくるし、それを他人も感じ取ることができる。
それに、そもそも自然とは単に循環するだけの存在ではない。動物の中でも、明らかに継続的な文化を営むような種もいるし、エピジェネティクスや細胞の継承を通じて進化のプロセスには計画や意図が少なからず存在する。それに、石油や石炭、石灰石、鉄鉱床といった永続性のある物質を人間以外の生命種が作り出すことも十分にありうる。それが意図したものであるかどうかはともかくとして、全体として人間中心主義と自然軽視の発想がアレントを支配していることは否めない。
また逆に、生命の必要性から完全に分離した「行為」なるものが一体何なのかについても疑問が残る。直接的に生命の必要性に貢献しないとしても、緩やかに食や性と生きることにつながっている行為しか、僕には想像することができない。
むしろ、必要性の中に、例えば単なる生命維持のための食においても、人は民族的な誇りや人とのつながりに関して意味を見出す。パピコを2人で割って食べる行為は単なる栄養補給ではなく、2人の特別な関係性を表しているが、同時に栄養補給でもある。共に畑を耕す行為は単なる労働でありながらも、能力の顕示でもあり、先祖への恩返しでもあり、政治的活動でもある。生命維持とそれ以外を完全に分離することは、そもそも人間生活においてはむずかしい。
さらに言えば、例えば家を建てるという「仕事」についても、それは効用だけではなく、それ自体が意味の対象となりうる。家というのは、生命維持のための道具ではなく、1つの意味をもった空間であり、それを持つこと自体が1つの達成であり誇りでもあり自己顕示でもある。それは「行為」の要素をふんだんに含んでいるのだ。
こんなことは当たり前のことなのである。それなのにアレントがここまで生命維持とそれ以外を分離しようとするのは、アレントの労働蔑視がある。農家に親を殺されたというのは冗談にしても、「農業などバカでもできるからさっさと機械化してしまえ」という見下しを感じずにはいられない。
また、自然と人間を分離して、人間を特別な存在に仕立て上げたいという思惑も透けて見える。人間と自然の共同作品である里山的な発想がアレントには徹底的に欠けている。
さて、このように見ていると、私とアレントの意見は決定的に異なる。もうすぐ発売予定の拙著『労働なき世界』(「拙著」って一回は言ってみたかったんだよねー!!)との比較を通じて考えてみたい。
拙著『労働なき世界』との比較
アレントは、農作業や料理、炊事、洗濯といった活動をひとまとめに労働と呼び、「必要だけど、不愉快でつまらないもの」という烙印を押した。これは、活動そのものに既に備わっているネガティブな性質であるとアレントは考えている。
一方僕は、これらの活動が時に不愉快でつまらないものであることを認めつつも、そうではない場面もあることを指摘した。
つまり、その作業が不愉快かどうかというのは、その作業をやる状況や本人の心持ちに左右される。そして、生命の必要性に応じたものかどうかというよりも、他者からの強制の有無によって、その作業が不愉快がどうかが決定されると考えられる。
逆に言えばアレントの言う「行為」的な要素、意味づけや自発性、創意工夫といった要素をその作業に含むことができるのであれば、その作業は不快な労働であることを止める。アレントの分類が不十分なのは、作業の性質そのものだけに注目しているからなのだ。
この「人は労働の作業の性質そのものを嫌悪している」と言う誤解は、アレントに限った話ではなく、社会全体に蔓延していて、人が休みや金を要求するのは、不愉快な作業を嫌悪しているからだと考えられている。むしろ人は、他人から命令されるのでなければ、何らかの作業を欲することの方が多い。
だからこそ僕は、金による強制によって不愉快に転じてしまった労働をやめれば、自発性と喜びに満ちた行為を人は自ずと始めるのだと主張した。そのためのトリガーがベーシック・インカムなのだ。
(脱線しそうなので、そろそろこの辺りにしておこう…)
■まとめると…
アカデミックな本としては悪くなかったが、労働蔑視がすぎるあまり、かなり偏りのある本だった。とはいえ、アレントの誤解は現代人にも通じる部分があるので、その誤解を解くためには僕の本を読んでね(ハート)という結論に至ってしまった。まさしく我田引水。
とはいってもアレントいわく、活動的生における最も人間らしい行為には自己PRが欠かせないようなので、僕のこの文章もまさしく誇り高き「行為」なのだろう。ということで、自己正当化してここら辺にしておこう。
気づけば1万字に達しそうだ。時間があるといくらでも文章を書いてしまうよ。本当ね。
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