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スキルの普遍性について考える

僕の職場の倉庫の配置は、法則性がないという法則を持っている。

熟練の先輩いわく、取り扱い商品が増えていく中で場当たり的に配置を決めていった結果、全くもって初心者向けではない配置に仕上がったとのことだ。そして、一度その配置で先輩たちが覚えてしまった以上、それを変えるのには多大なエネルギーが必要となるため、結局そのままになっている。

だが、その熟練の先輩は、おそらく1000種類以上にもなる商品の配置をほぼ完璧に覚えている。

すごいなぁと思う一方で、このスキルは転職した途端に無意味なものになってしまうことに思いを馳せて、少し切なくなった。

だが、改めて考えれば、完全に普遍的なスキルなんてあるのだろうか?

例えばパソコンのタイピングが早い人は、現在のキーボードのスタンダードであるQWERTY配列には慣れきっているものの、今後、それ以外の配列が採用されれば、そのスキルは無意味なものと化す。QWERTY配列は全くもって非効率であるにもかかわらず、一度それで普及してしまったが故に変えられなくなっているわけだが、未来永劫変わらないとは限らない。

日本語力や英語力すらも、国が変われば通用しない。熟練のプログラマーも全く未知のプログラミング言語やOSの前には立ち尽くすしかないかもしれない。野生動物や植物の習性を熟知した狩猟採集民も、別の惑星の生態系の前では赤子同然だろう。

スキルの普遍性というものは程度の差でしかなく、未来が見通せない以上、それが全く無意味なものになる可能性からは逃れられない。だったら、この会社でしか通用しないスキルに対して、さほど悲観的になる必要はないのかもしれない。

官僚制は、職業上の秘密によって自らの優越性を維持するとマックス・ウェーバーが言っていた。官僚の秘密なるものは、全くもって馬鹿馬鹿しく非効率であり、その職場の外に出たら通用しないものだが、官僚ではない民間(笑)も似たり寄ったりなのだ。

まぁ、コミュ力とか、論理的思考力とか、創造力とか、非認知能力とか言われるような抽象的なスキルは、ある程度普遍性を持っていると言っていいと思う。だが、こういう抽象的なスキルは、それを測定するのが難しく、「これができればコミュ力あり!」という基準がない。それゆえに、体系的に身につけるのも難しい。

困った困った。

まぁ結局のところ、「出たとこ勝負でなんとかなるっしょ」の精神があればなんとかなるのだと思う。未来に怯えて、資格マニアのようにせわしなく勉強していれば、手に入れたスキルが台無しになったときにパニックになるだろう。

楽に行こう。人生は新しいことで満ちているのさ。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!