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『ドライブマイカー』は、スラヴォイ・ジジェクが好きそうな話だった

真実はそんなに怖くない。本当に怖いのは、真実を知らないこと。

第一幕の最後に現れるこの台詞。妻のオトの不倫を目撃したことが消化不良のまま、オトが死んでいったあとに出てくる言葉だ。これは、物語を通じて意味が2度変化するのだが、そもそもこの言葉を初めて聴いた観客の頭にはクエスチョンマークが浮かぶ。

本当に恐ろしいのは、「真実を知らなかったことを知ること」ではないか? 今のところそういう話ではないか?と。

不倫を知らない間、家福は幸せそうに見えたが、不倫現場を目撃したことで、家福の心の中は狂ってしまった。いっそ不倫を知らなければそのまま幸せに生きられたのに‥と誰しもが感じただろう。しかし、家福は目撃したという事実をひた隠しにしたまま、しばらくオトと生きていた。

彼は不躾に現れた現実界と対面することを拒否して、象徴界に変化を起こさなかった。

このことは後からオトが創作した物語によってメタファーとして現れるのだが、その物語の主人公は人を殺す。しかし、誰も死体に気づかなかったように、何事もなく日常が過ぎていく。現実に起きた変化は、犯行現場に監視カメラがついたことだけ。

そのことに耐えかねた主人公は、監視カメラに向かって現実界を押し付ける。つまり「私が殺した」と告白するのだ。

このシーンをみて、冒頭の言葉が変化する。最も恐ろしいのは「真実と対面しながら、真実を知らないふりをすること」だった。

しかし、この真実とは正確には真実ではなくて、現実界に過ぎない。現実界は自分自身にとっての真実であり、それは普遍性を持たない。つまり、正確には「現実界に起きた変化に、象徴界でだんまりを決め込むこと」が恐ろしいのだ。

家福はオトの不倫相手と話しながら、じりじりと現実界へ接近していった。しかしギリギリのところで不倫相手が不特定多数だったと嘘をつきフォーカスをぼやかし、現実界へ到達することをためらった。

そこで不倫相手から監視カメラのエピソードを聞かされるのだが、それでも現実界に到達し切ることはなかった。

モヤモヤした気持ちのままラストスパートでは、若き女性ドライバーのワタリが、冒頭の言葉の解釈を変更する。

真実‥つまり誰がみても明らかな「確固たる人格」とやらは存在しない。あるいは到達することは不可能だ。だから、自分の目で見る現実界こそが真実であると受け入れるほか、僕たちに選択肢は残されていない‥と、そんなことを彼女なりのエピソードで伝える。

そこで気づく。「真実を知らないこと」が最も恐ろしいということの意味が。永遠に到達することのできない真実というものが、僕たちを悩ませるすべての元凶だった。到達しきることがないなら、この恐怖をなくすことはできない。

だったらせめて向き合うしかない。物語の最終盤、家福は「君のせいで僕の人生は台無しだ!」と怒り狂うべきだったと泣き崩れる。ようやく彼は現実界と対面することができるのだ。

何度も挿入される劇中劇の方が、現実界にいとも簡単に迫っていた‥ということに観客が気づくのは、その後悔のシーンを経た後。

「仕事をするしかない」そんな言葉で締めくくられていたが、ここでの仕事とは仮面としての仕事だろう。分かりやすく家福の場合は俳優(兼 演出家)なわけだが、ワタリはドライバーとしての仮面をかぶっていた。

しかし、仮面の下にはポッカリと深淵が開いていて、僕たちは仮面なしにはコミュニケーションを取ることができない。仮面を被ることを受け入れて、それでも生きていくしかないというメッセージだろう。

結局、嘘をついていたのはオトではなくて家福だったわけだ。オトの「愛している」は紛れもなく本音で、それを嘘に変えていたのは家福に過ぎなかった。

現実界の変化は否応なく訪れる。人が死んだり、車が事故に遭ったり、そういう変化が、この映画では意図的にドラマチックに描かれる。しかし、それは象徴界の次元ですんなり受け入れられるとは限らない。

現実界と、他人という地獄、それを受け入れたり受け入れなかったりする象徴界‥そんなジジェクが好きそうな映画だった。絶対、ジジェクは次の著作で意気揚々と『ドライブマイカー』の話をすると思う。ぜひ、ジジェクの次回作を買ってほしい。もし書いていなかったら、僕がその費用を肩代わりしよう(先着1名)。

とにかく面白い映画だった。情報量が多く、一瞬も気を抜けない。こんなに映画でハラハラしたのは久しぶりかもしれない。

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