僕はきっと、僕のお母さんより馬鹿なのだ

味噌を作ろうとして、ググる。へぇ、こんな風に作るんだ、と知る。まだまだ、知らないことがいっぱいある。

知っているつもりで、知らないことがたくさんあることは今さら指摘するまでもないけれど、ついつい僕たちは知っているつもりになっている。

だって、学校で科学教育を受けたもの。

僕は天動説を信じない愚かなキリスト教徒たちとも違うし、自然現象から神様を想像したご先祖様たちとも違う。唯一、科学のみを信じる啓蒙された現代人なのだ‥と、心のどこかで思い込んでいる。

しかし実際のところ、僕は何もできない。ミシンの使い方もわからなければ、味噌もぬか漬けも作ったことがないし、畑のキャベツはすぐに枯らしたし、本棚一つ作ったことがない。

昔の百姓は大工仕事ができて当たり前だったらしい。壊れたものは自分で修理しただろうし、発酵食品を作るのもお手のものだったはずだ。

彼らは大工仕事を図画工作の授業で習ったわけでもないし、物理法則も生物学も化学も知らない。

それなのに、先人たちと力を合わせ「観察と実験と再現性」という観点から、自分たちの解決策を手に入れてきた。

(物理や化学の言葉で説明することと、生活の言葉で説明すること。何が違うんだろうね。後者が科学と呼ばれないのはなぜなんだろう?)

そこまで遡らなくても、僕の母親ですら、破れた障子を慣れた手つきで治し、穴の空いたシャツを繕い、畑でキュウリを収穫していた。

僕たちの時代はテクノロジーが発展したから余計な仕事はしなくて良くなった? 

違う。Tシャツはロボットが自動で作っているのではなく第三世界の奴隷が古典的なミシンで縫い上げている。3Dプリンタで家を建つことはなくいまだに大工は金槌を握っている。生活のためのテクノロジーは大して進歩していない。

単に僕たちは金に支配されるようになっただけだ。金がなければできないことが、増え過ぎているのだ。

金というのは他人を搾取する権力のことだ。権力に依存するほど人が愚かになることは誰もが知っている。

自分の力で何かを成し遂げることもなくなり、誰かに頼み込むこともなくなり、お金を払えば自動的に商品が手に入る。そして頭を使うことがなくなっていく。

僕たちはSlackとVBAを使いこなして得意げな顔をしているけれど、所詮それらは権力の配分に預かるためのテクノロジーであって生活のためのテクノロジーではない。権力を手に入れて、馬鹿になるためのテクノロジーだ。

むしろ僕たちの暮らしの方がシンプルだった。シンプルライフは、ぜんぜんシンプルじゃなくて複雑だ。

僕は複雑な暮らしを取り戻したい。先人たちの知恵を生活の中で受け継ぐチャンスはほとんど逃したけれど、本やネットで学び、試行錯誤するチャンスは残っている。

堆肥で家庭菜園を楽しみ、パンを捏ね、ミードを作っている(酒税法はクソ喰らえ)。まだまだ商品抜きでは暮らせないけれど、少しずつ商品の世界から離れていきたい。

賢くなるために勉強だ。土と菌にまみれながら。

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