新品のスーツを着るなんて、環境破壊ですね

僕は、身だしなみ警察によく違反切符を切られる。よれよれのTシャツや泥だらけのスニーカー、膝が擦り切れたジーパンのまま出勤するからだ。

どの程度まで身だしなみを整えるべきかについて、明確な合意は存在しない。よれよれのTシャツなんて気にしない人もいれば、カラーコーディネートにまで口うるさく指摘する人もいる。

しかし、「ええやん別に」と「身だしなみはちゃんとしておくに越したことはないやろ」のパワーゲームは、常に後者が勝利する。なぜなら「ちゃんとしておくに越したことはないから」だ。

他者の心の中は読めないが、だらしないよりも、整っている方が好印象を与えることはほぼ間違いない。ならば、迷ったときは整えた方がいいというロジックが常に成り立つ。

スニーカーよりも革靴。くるぶしソックスよりも普通の靴下。ネクタイは締めないよりも締める。ジャケットは羽織らないよりも羽織る。古いものより新しいものを着る(これを突き詰めていけば纏足に行き着く)。

ここで想定されているのは、小姑のような他者だ。つまり、よれたTシャツを見るだけで不愉快な気分になるようなタイプだ。たしかに、このような小姑を想定するなら、身綺麗にしておいた方がいい。

しかし、ここで逆のパターンを考えてみよう。例えば、環境極左が世間の大半だったとする。真夏にスーツを着ることはクーラーの使用を促すことになるし、新品のスーツを着ているということは、第三世界の奴隷を搾取し、略奪的農業を後押しし、二酸化炭素を大気に放つことになる。新品のスーツを見ればすぐさまそのことに想いを馳せる人だらけの世界だ。

ならば、シャツはよれよれの方が無難ということになる。綺麗な服をきていたら毛沢東に粛正されるみたいなことがあったんだっけ? そういう価値観がもう一度やってくるというわけだ。

やや病的に思えるかもしれない。だが、僕から言わせればよれよれのTシャツを着ているだけで白い目で見られる世界も狂ってる。

そもそもよれよれのTシャツによって危害を被る人はいない。不快感を覚える小姑を勝手に想定して不快感を覚えるわけであり、不快感を直接感じているわけではない。

「好きにすればええやん」となって欲しい。そのためには小姑と環境極左のパワーバランスが拮抗しなければならない。今の世界は小姑が力を持ち過ぎているため、新品のスーツが無難ということになってしまっているが、環境左翼が小姑と同等の力を持てば何が無難かはわからなくなる。

そのとき「もうわからんから、好きにすればええっか」となるのかもしれない。早くそんな世界になってほしい。よれよれのTシャツで葬式に出たい。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!