話し合わないコミュニケーション
1人ではできないことは多いが、1人でしかできないことも多い。要はバランスだ。このバランスがなんとも難しい。
この前、柳田國男の『都市と農村』を読んだ。組合やユイといった人と人との協力関係がどれだけ大事かを痛感させられた。その一方で、ムラ社会的なルールに人がどれだけ支配されてきたかも学べた。
僕はどちらかと言えば個人主義的だ。人と意見を合わせるくらいなら、1人でやっちゃった方が早いと思ってしまうタイプだ。
僕は妻と子どもがいないときによく勝手に模様替えをする。しかも壁に穴を開けたり、家具を買ったり、「もう後に引けないタイプの模様替え」だ。
相談しながらやれば「あぁでもない、こうでもない」と、無駄に時間がかかる。それは、協力しながら作業を進めることで短縮できる時間では補えないロスだと思っている(『シン・ゴジラ』を観ればそのことを痛感する)。
話し合えば結局決まらず、模様替えが実行されないケースも多い。アクロバティックなアイデアは却下されてしまう。だから僕は相談せずに勝手にやる。
自分のこういうところは全くもって民主主義的ではないなぁと感じる。それでも、こういう身勝手さは、人間に必要だと思っている。
相談することで失われる独創性や行動力は、やっぱり存在すると思う。ドストエフスキーとトルストイが相談しながら小説を共著したとして、『カラマーゾフの兄弟』や『戦争と平和』以上の名作が生まれたかだろうか?
たぶん1行も書き進めることなく、論争に明け暮れていそうだ。
言語によるコミュニケーションや説明では、脳内で相互反応的に発生するレンマ的知性による根拠を十分に伝えることはできない。ドストエフスキーの一瞬の閃きは、芸術に仕上げるまで、外部化されない。ならば、「多分こうなのだよ」を徹底的に形にしていく作業は、孤独になりがちだ。
一方で、例えばジャズミュージシャンのセッションや、茶道における一座建立みたいなグルーヴ感は、言語外のコミニケーションにより、言語外のアートを共有している。セックスやチームスポーツもそれに近いものがある。そういう時は、1人ではできない成果が生まれる。
考えれば考えるほど、言語によるロゴス的なコミュニケーションは、さほど万能ではないと思われる。烏合の衆は、言語によってコミュニケーションを取ろうとするから生まれるような気すらしてくる。「三人寄れば文殊の知恵」とは、非言語民主主義を意味しているのかもしれない。
ならば、言語によるコミュニケーションは何のためにあるのか? 僕はコミュニケーションそのものが目的になるコミュニケーションにこそ、意味があると思っている。
西野カナのこのメンヘラっぷりは、核心をついている。西野カナは彼氏が無意味なコミュニケーションに付き合ってくれているという事実を求めているであり、言語による解決策を求めているわけではないのだ。
有識者会議みたいなものも同様だ。有識者が集まって会議しているという事実そのものを見れば、人は何かが解決されたと感じる。
言語によるコミュニケーションは象徴的な機能こそが重要なのであって、情報の伝達という結果は副産物に過ぎない。
紛争解決や、悩み相談には良い。でも、何かを生み出したいなら、言語でコミュニケーションすることは重要ではない。言語ではレンマ的なアートを捉えきれないからだ。
そのくせ、言語は完璧を装う。森羅万象を捉えきって、その操作が全てを解決するかのように錯覚させる。
語りえぬものには、沈黙。で、語りたい人を語らせてやればいい。
1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!