優しさを受け取ることも、優しさ。

ホモ・エコノミクスに優しくされたらどうするべきか? 例えばホモ・エコノミクスがもみじ饅頭を手土産に、家に遊びにきたとき。

彼は利己的な遺伝子にコントロールされた、利己的な人物なわけだ。自分以外の人物に金銭を浪費することは、彼にとって身を切られるような苦痛に違いない。

それでも手土産を持ってくるということは、手土産を渡すことによって好印象を与えれば、僕からさらに大きな利益を引き出せると考えているのだろう。

そんなとき、僕ならどうするか?

そもそも、僕はもみじ饅頭がそんなに好きではない。というか、手土産に持ってこられるようなお菓子は、大抵美味しくないから、僕は手土産自体にはそんなに嬉しさを感じない。

だがそれでも、手土産を持ってきてくれたという事実は嬉しい。ならば、もし相手がホモ・エコノミクスなら、その事実だけ受け取り、もみじ饅頭を遠慮する方が、彼のためになるだろう。

手土産を持参した事実さえあれば、好印象を得るという彼の目的はクリアされることになるし、本来コストでしかなかったもみじ饅頭代も、彼が自分自身で食べて、自分自身の効用として消費することができる。

では、相手がホモ・サピエンスならどうか?

ホモ・サピエンスは、相手に貢献したいというリビドーを有する生き物だ。手土産を受け取って喜んでもらえれば、それだけで嬉しくなる。

逆に断られてしまったときは、自分を蔑ろにされたような、自分が惨めな存在であるような気分になるだろう。

ならば、相手がホモ・サピエンスだった場合は、僕はもみじ饅頭を受け取った方がいいことになる。もみじ饅頭はあんまり好きじゃないけれど、そのことを隠して、嬉しそうにその場で食べてしまうことが、最もホモ・サピエンスを喜ばせることになるはずだ。

この場合、僕は別にもみじ饅頭を食べたくない。それでも、ホモ・サピエンスのために食べる。

優しさを受け取ることは、優しさなのだ。ホモ・サピエンスが相手なら。

先輩が飲み代を奢ってくれるときも、おじいちゃんが多額のお年玉をくれるときも、おばあちゃんが大量のクリスマスプレゼントを持参するときも同じ。断ってはいけない。彼ら彼女らは貢献したくてたまらないのだ。

たしかに「プレゼントによって相手に好印象を与えたいと考えている」とか「お返しを期待している」とか、利己的な動機も多少は含まれているだろう。だからといってその動機が主要な動機かどうかは別問題だ。貢献したい欲求が9割で、利己的な動機が1割ということもあるだろう。逆の割合の場合もあるだろうが、相手に貢献したいという動機が存在することは疑いようがない。

なぜか「ほんの少しでも利己的な動機が含まれていれば、それは100%利己的な行為」とみなされる傾向があるのは、僕にとって不思議でならない。「偽善」という言葉が、その傾向を象徴している。動機というのは通常は整理されていない。世の中のあらゆる善には、偽善的な要素も当然含まれているが、同時に純粋な献身も多少なりとも含まれているはずだ。

純粋な貢献ならば遠慮する理由はないわけだが、なぜか遠慮することが美徳であるという風潮は根強い。僕もその風潮を知らないわけではないので、優しさを向けられたときには一度断る素振りを見せることがある。だが、これはあくまで儀式的なものであって、断りを断られることを見越している。そして大抵そうなる。で、最終的に優しさを受け取るのだ。

ただ、優しさを受け取るという行為には、プレッシャーが伴うこともある。何かお返しをしなければならないというプレッシャーだ。僕の経験上、そのような打算的なプレッシャーをかけてくる人はほとんどいないように思えるが、それでもプレッシャーを感じる人は多い。つまり優しさを与えてくれる相手がホモ・エコノミクスであって、お返しを期待しているかのように感じているわけだ。

それが行きすぎて、優しさを向けることをあらかじめ断られることがある。「香典はお断りします」みたいなやつだ。僕も相手にプレッシャーをかけるのを嫌って、あえて優しさをセーブするようなこともある。

これ、正直めんどくさいし、辛い。

本当は僕たちは誰かに貢献したくてたまらないホモ・サピエンスだと仮定すれば、無条件に優しさを向けることが無作法になってしまう社会は耐え難い。そして、実際そうなっている。

その反動で、おばあちゃんは孫に対してあれだけ世話を焼くのかもしれない。一度貢献することを許されれば、怒涛の貢献をしてしまうわけだ。

知り合い同士じゃなくても同じだと思う。この前、電車で調子の悪そうな女の子がいて、初めはみんな無視していたのだけれど、1人のおばあちゃんが声をかけた後は、周りのみんながあれこれ世話を焼き始めた。みんなプレッシャーをかけるのを恐れて空気を読んでいたけど、「優しくしていいんだ」ということが判明すれば、進んで何かをし始める。

もっと気軽に貢献できる世の中になったらいいのに、と思う。別にお返しなんていらないから、余ったお惣菜をお隣に渡したいし、見知らぬお母さんが困ってるなら、その辺の赤ちゃんの世話もしたい。

ここまで書いてきたことは、『とんがり帽子のアトリエ』という漫画に教えてもらった。

クスタスという足の悪い男の子のために、タータという男の子が魔法で問題を解決しようとするシーンだ。

クスタスが苦しいって教えてくれたおかげで、今まで見えてなかった苦しみが俺の世界に増えたんだ。見えたらもう見ないフリはできない‥助けられるのに助けなかったらそれは俺の苦しみになる。だから協力してくれ。お前のことを助けたい俺のこと、お前も助けてくれないか?
出典:白浜鴎『とんがり帽子のアトリエ』8巻

どっちが助ける側なのかなんて、本当はどうだっていいのかもしれない。誰かに優しくされれば嬉しいし、誰かに優しくしても嬉しい。そこでは、偽善も善も溶け合っていて、そんな区別は誰も気にしない。

そういう社会ってどこにあるのだろう? 周り中にホモ・エコノミクスを見出さずにはいられないような今の社会ではないことは、明らかだ。

こうやって考えていけば、お金ってなんだろう? 資本主義社会ってなんだろう? という疑問に行き着かざるを得ない。

人間を履き違えたシステムが、どれだけの人を苦しめているだろうか。

システムを変えるのには時間がかかる。それに、これだけのことを僕が説明しても、そこら中にホモ・エコノミクスを見出してしまう性癖は根強い。

道のりは遠いけれど、優しさをなんの遠慮もなく受け取るところから始めてみればいいのかもしれない。それはこれからの時代に必要な優しさなのだ。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!