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簡単に必読書とか言わないで
プラトン『国家』 アリストテレス『ニコマコス倫理学』 ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』
ヘーゲル『精神現象学』 デカルト『省察』 パスカル『パンセ』 ライプニッツ『単子論』
カント『純粋理性批判』 キェルケゴール『死に至る病』
バーク『フランス革命の省察』 ジェイムズ『宗教的経験の諸相』 ニーチェ『道徳の系譜』
ベーコン『ノヴム・オルガヌム』 フッサール『ヨーロッパ諸学の危機と超越論的現象学』
メルロ=ポンティ『知覚の現象学』 ハイデッガー『存在と時間』 アーレント『精神の生活』
ヨナス『責任という原理』 サルトル『存在と無』 ベルグソン『時間と自由』
ミンコフスキー『生きられる時間』 レヴィナス『全体性と無限』 フロイト『快感原則の彼岸』
ヤマグチノボル『ゼロの使い魔』 ドゥルーズ=ガタリ『アンチ・オイディプス』 フォーダー『精神のモジュール形式』
ヤスパース『精神病理学総論』 エレンベルガー『無意識の発見』 ラカン『精神分析の四基本概念』
フーコー『言葉と物』 ソシュール『一般言語学講義』ヴェイユ『重力と恩寵』 ディルタイ『精神科学序説』
ブーバー『我と汝・対話』 ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』ミンスキー『心の社会』 ライル『心の概念』
バタイユ『エロティシズム』 アガンベン『ホモ・サケル』 ラッセル『西洋哲学史』
これを全部読んでる10代がこの世界に1人でもいるだろうか。いや、いない。
必読書とか、必須教養とか、その手の類の言説は、人に完璧さを求めすぎる傾向にある。利用規約みたいにね。
「10代でやっておくべき20のこと」みたいなやつもそうだ。うるせぇ。
そもそも、何をもって必要なのか? その言説を発信する人にとっては必要だったかもしれないが、他の人生にとって必要かどうかなんて分かりっこない。
必読書をコンプリートしようとする読書は、本当につまらない。好奇心の赴くままに本を漁るのが、やっぱり楽しい。
一方で、必読書と呼ばれる本が、いい本である傾向にあると認めることは、僕もやぶさかではない。しかし、あくまで傾向だ。
僕にとって、つまらない必読書も多い。
結局のところ、本は、その人の課題意識と、著者の課題意識が合致していなければ、つまらない。
資本主義になんの不満もない人が『資本論』を読んだところで、時間の無駄でしかない。
ここ数年は教養ブームで、哲学書を読んでなければ恥ずかしいという風潮も生まれてきた。恥ずかしいなんてことはない。哲学書が必要な人生なんて、幸せとは言えない。
知らないことは知らない。読んでないものは読んでない。それを大っぴらに言えることの方が価値があると思う。
それに、別に哲学書を丸暗記していることに、何か意味があるだろうか。「知識は使えることが重要」みたいな言説はチンケな一般論だが、やはりそれには同意せざるを得ない。
知識は自分の中で咀嚼して、他の知識との生きたコミュニケーションをとらせて、初めて有効に活用し得る。必読書をスタンプラリーのようにクリアするために、速読を習得したところで、人に自慢する以外の活用方法はない。
こういう話をしていると、あたかも僕自身が「知とはなにか?」を悟った賢人であるかのようなポジションを取ってしまうが、僕はただの本好きだ。
僕は権威を気取って人にあれこれ指図はしたくない。もちろん、好きにしてくれればいい。
ただ、必読書とか教養とか、そういう言葉にプレッシャーを感じている人がいるなら、そういう人の心の重荷を取り払ってみたいと思って、こういう記事を書いてみた次第だ。
楽に行こうぜ。
1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!