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貧困の解決策がいつも「教育」なのは正しいのか?

コバルトを採掘するコンゴの子どもたちや、シリコン鉱石を掘るウイグルの子どもたち。その悲劇を繰り返さないために「教育を!」と叫ばれることが多い。

たしかに教育を受ければ、素手で汚染物質にまみれた鉱山を掘るような仕事をしなくて済み、クーラーの効いたオフィスで事務仕事ができる可能性が高まる。

だが、これは問題の解決にはならない。コンゴ人の一部がオフィスで仕事をしたとして、じゃあ誰がコバルトを掘るのか?

仮にコンゴ人全員が義務教育を受けたとしても、いままで高卒がオフィスワーカーになれていたのが、大卒でないとオフィスワーカーになれなくなるだけだ。つまり到来するのは、高卒がコバルト掘りをする世界であり、学歴社会が進めばFラン大卒でもコバルト掘りをする社会になる。貧困層にさらに教育費の負担がのしかかる以上、何の変化も起きない。結局のところ誰かが貧乏くじを引く。

じゃあどうすべきか?

コバルトの採掘の安全性を確保して、正当な報酬を支払う(必然的に、IT機器の価格向上を受け入れる)ことは、人権団体が好む解決策だ。市場経済の中で、このアプローチは常に失敗してきた。

ならば、コバルトを掘らない社会を目指す方が手っ取り早いように感じる。

スマホにもパソコンにも電気自動車にも蓄電池が使用さの中にコバルトが使用されている以上、コバルトを掘らないことは、僕たちの暮らしからYouTubeやamazonを消し去ることを意味するようにも見える。もしかしたら都市鉱山からのリサイクルで回せるかもしれないが、最悪IT機器のない世界も覚悟しなければならない。

ただ、緩やかに移行できそうな気もする。それに、どうせいつかは枯渇するのだ。どうせいつかは、利用量を減らしつつリサイクルする社会を作る必要があるのだ。ならば、今、コバルトが枯渇したと思って、今やっちゃえばいい。

もちろん、そんなことが簡単にできたら温暖化はとっくに止まっている。だから、とにかく僕たちにできることは「教育」という誤った処方箋の発行を止めることだ。

「教育」の主要な機能は肩書きの付与であり、甘い汁を吸うポジションへのパスポートに過ぎない。要は椅子取りゲームなのだ。学校教育は格差を広げることにしか役立たない。

(もちろん、僕は肩書きの付与が主たる目的である学校教育を批判しているのであり、広義の教育=技能の伝達の必要性を否定しているのではない)

問題は甘い汁を吸われ続ける人が消えないことだ。

まずは問題を直視しよう。話はそれからだ。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!