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「可愛い」について【雑記】

思想強めの記事が続いている気がする。さっきまでそんな記事をもう1本書いていたのだけれど、バランスをとるために、頭を空っぽにしてフリーハンドで日記を書こうと思う。

昨日、僕はUSJに行ってきた。もうすぐ4歳の誕生日を迎える息子(絶賛マリオブーム)のための家族サービスである(楽しかった。でもマジで疲れた。そして出版に向けてなにも準備ができない焦りが襲い掛かってきた。辛い)。

春休みに突入しているからだろうか、やけに学生の姿が目立った。制服で、髪の毛をくるくる巻いて、テレサやキノピオのカチューシャをつけて、道行くJKたちはやたらとキラキラした顔をしていた。

そういえば、10年前なら、JKがマリオグッズをつけている状況はほぼあり得なかった。10年前のJKにとって「可愛い」の対象はミッキーであり、キティちゃんであり、スヌーピーであり、ムーミンであった。

USJのマリオエリアが誕生したあたりから、町のアパレルショップでもマリオコラボグッズを見かけるようになった。「マリオは可愛い」という常識がそこでインストールされていったのだと思う。

僕は1つの仮説に至った。それは、「可愛い」とは、どのようにでも生み出せるのではないか、という仮説だ。

よく考えればマリオは別に可愛くもなんともない。事実10年前には可愛いの対象ではなかったのだ。しかしいまのJKにとっては可愛いの対象なのだ。これは単なる思い込み、刷り込み、そうしたものの結果だ(よくよく考えれば、ミッキーも初見ならキモい)。

別にそれ自体を批判するつもりはない。そもそも「可愛い」の客観的基準など存在しようがない以上、すべての「可愛い」は思い込みであり刷り込みである。なんとなく一緒にいて、可愛がっていたら、本当にかわいく見えてくる。あらゆる「可愛い」は、そういうプロセスで生み出される。

「記憶のしみついていない知覚は存在しない」とベルクソンは言った。おそらくその通りである。「可愛い」という知覚には、「可愛い」を育んできた記憶がある。初めて見たキャラクターに「可愛い」を付与できるのは、これまで育んできた「可愛い」の記憶との類似点を見つけ出しているからだろう。

ならば理論上、どんなものにでも人間は「可愛い」を見いだせるのではないか? そんな気すらしてくる。無職やニート、生活保護受給者の独居老人をゆるキャラ化し、ごみ屋敷に散らばるスーパードライの缶をコミカルなゆるふわたっちで表現する。そんな漫画やアニメを夜な夜な鑑賞し続ければ、実物の彼ら彼女らのことも可愛くみえてくるかもしれない。

そういえば、マリオエリアは「可愛い」をアピールするための様々なギミックが用意されていた。JKたちはもはや無機質な通路で順番待ちをさせられることはない。あちこちに映えスポットが配置された順番待ちエリアで自撮りをしていたらあっという間に自分の番がやってくるのである。

正直、アトラクションとしては二流だった。キャラクターたちの世界観をはぎ取って同じアトラクションを体験したなら、なんの面白みもないだろう。しかし、そんなことは誰も気にしない。襲い掛かる可愛いの応酬をカメラフォルダに収めているうちに、あっという間に時間が過ぎていくのだから。

この社会は可愛いを演出するテクニックを、SNSとの相互作用で磨いてきた。このテクニックを商業目的ではない、別に可愛いに向けることだってできるはずだ。わからないけれど、ネグレクトを受けている子どもとか、生活保護の独居老人とか、そういう苦しんでいる人たちだ。

「人助け」は義務や道徳として想像されがちである。「アフリカでは10秒に○人の子どもが」云々みたいな話だ。しかし、そんなやり方をするから「あ、大丈夫っす」となっているのだろう。そうではなく「可愛い」を差し向ける対象として社会問題を演出すれば、なにかいい変化が起きるような気もする。

わからない。なんの根拠もないフリーハンド日記である。気づけば思想が強くなっていく。それが僕の悪いところだ。でもいいよね。そんな僕も可愛いと思わないかい?♡

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!