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フロイトとかいう理系のサンドバッグ

今さらながらフロイトの『精神分析入門』を読んでいる。一般向け講義の記録から書かれているためか、なんとも軽快で読みやすい。

さて、僕は本を読むときは同時進行でその本や著者に対する解釈を色々とネットで拾い読みするという性向を持っていて、今回もその流儀に従っているのだが、相変わらずフロイトという人は理系のサンドバッグとして大いに役立っているようだ(最近はフェミニストからもサンドバッグとしての価値を見出されているようだ)。

僕はサンドバッグを擁護したがる性癖を持っているので、今回も例に漏れずフロイトを擁護したい気分になっている。

ちょっとやってみようか。

あれこれとフロイトと精神分析は、エビデンスがないとか、ケーススタディに過ぎないとか、オカルトとか、反証可能性がないから科学ではないとか、単純に「間違ってる」とか、タコ殴りにされてきた(ウィキペディアを読んでほしいw)。しかし僕はこれらが的外れであるように感じている。

人間の心理という観察できないドロドロの塊を、なんとか解釈可能な形に区切る方法の1つが精神分析であって、「正しい」とか「正しくない」とか、そういう問題ではなく、それは解釈の1つとして考えるべきだと思う。そこで問われるべきは、正しいかどうかではなく「精神分析が、有益な視点をもたらすかどうか」だろう。そもそも、正しいかどうかは永遠にわからない。

脳科学で証明されないから間違い、みたいな指摘もピント外れだ。脳科学というのは所詮外部からの観察に過ぎないのであって、精神分析のように主観的な角度からアプローチすることはできない。つまりAVマニアの童貞がセックスを語っているような滑稽さがそこにある。

当然のことながら、頭蓋骨を切り開いて大脳新皮質の一部を観察すれば「超自我」とか「エディプスコンプレックス」というラベルが貼ってあるシナプスが確認できるわけではない。

ならばそれは科学ではないと言われれば、確かにその通りかもしれない。だが、当たり前だが科学ではない=ゴミというわけでもない。

科学教の教祖カール・ポパーは反証可能性のないものは異端だという預言を残し、科学教の信者たちはそれを信じて熱心に魔女狩りを行なっている。

だが、それはあくまでカール・ポパーの見解であって、それがたまたま広く受け入れられているだけであり、その見解が僕にとって有効かどうかは別問題だ。

当然のことながら、「反証不可能でも正しい」ということはあり得る。「反証不可能でも有効な考え方」というのも、もちろんあり得る。「観測の結果、正しいと考えられてるが、実は間違っている」もあり得る。

ならば、「科学的かどうか」というのは、つまるところ「俺好みかどうか」の言い換えなわけだ。

まぁ、ちょっとこれは詭弁じみているが、「科学的かどうか」という要素をあまり重視し過ぎない方がいいという話だ。

ところで、肝心の「精神分析は役立つかどうか?」という点だが、これも趣味の問題に過ぎない。当然、「俺には必要ないぜ!」という意見も正しい。一方で、「いや、俺には必要だ!」という意見も受け入れられて然るべきだ。

では、僕にとってはどうか? 僕は日常において無意識にコントロールされているという心当たりはいくつもあるし、その状況を批判的に分析することで、人生をいくらかいい方向に向けてきたという感覚もある。他人の言動を精神分析的に見て、妥当に見える解釈を与えることもできたとも感じている。それにジジェクの本は面白いし、これまで考えてもみなかった可能性を発見して、視野が広がる体験もできた。

まぁ、おしなべていうと、「そういう考え方もあっていいよね、面白いし、たまには役立つんじゃない?」という感覚だ。

確かに、全てをおちんちんと関連させて考えるようなフロイトのやり方には首を傾げざるを得ないけれども、それを差し置いても良い事言ってるんじゃないかな。

結論としては「そんなに怒んなよ」ということだ。面白いよ、フロイトも。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!