「自由には責任が伴う」とは「俺の気に食わない奴はブチのめす」という意味

そもそもおかしな風潮だと思う。まるで、「不自由なら責任は取らなくていい」かのようではないか?

当然、自由だろうが不自由だろうが、自分の行動に責任を取るのは自分だ。親に強制的に塾に通わされた結果、友達ができなかったとして、「友達ができなかった」という結果を受け取るのは自分のだから、責任をとっているのは自分なわけだ。

自由を差し出す代償として責任をとってくれる人なんていない。親は子どもに飯を食わせるという責任をとってくれているわけだが、それは別に子どもが自由を差し出している代償ではない。親ならば、自由だろうが不自由だろうが、飯を食わせる。それは飯を食わせたいから飯を食わせているだけだ。

この前、テレビを見ていると、イーロンマスクがツイッターを買収するニュースがやっていた。

規制を撤廃し言論の自由を取り戻そうとするイーロンマスクに「自由には責任が伴いますからねぇ」とコメンテーターが語っていた。これは「俺の気に食わない奴はブチのめす」という意味でしかない。

結局、責任を伴う自由とは、「偉い人の思い通りに生きる自由」だ。それは不自由と何が違うのか? 「自由とは隷属なり」というスローガンを掲げたビッグブラザーと何が違うのか?

言論の自由とは、だれを傷つけようが自由に発言できることを意味するわけだ。傷つこうが、傷つけられようが、自由でいいじゃないか。暴動を煽ろうが、何しようが自由だ。

当然、自由の中で衝突も起きるだろう。そのとき人は否応なく自分の行動に責任を取る。だからなんだというのだ? 自由でなくても衝突するし、責任を取らされるのだ。どうせなら、自由な中で責任を取りたい。

そもそも大抵の人は、自由になろうがわざわざ人を傷つけたりしない。大抵の場合、言論統制されている中で起こる誹謗中傷の方がタチが悪い。正義の感覚を持てるからだ。

自由とは誰かに与えてもらうものではないのに、なぜか、自由とは配給切符で配られるものであって、しかもその切符を所有しているかのごとく振る舞う人は一定数存在する。その人が「自由には責任を伴う」と発言する人なのだが、その人の意に介さない自由を行使する人がいれば自由は撤回されるものだと想定される。

自由の配給切符を手元に持っている奴が、たいてい諸悪の根源だ。僕はイーロンマスクは嫌いだけれど、ツイッターの規制を取っ払うという意見には賛成だ。問題があるとすれば「完全にフリーにすると良くないから、最低限のルールを設けよう」みたいなことを言い出すときだ。

そんなことをしたらツイッターでイーロンマスクに暴言をぶつけまくって、バンされよう。そして、イーロンマスクにバンされたという事実を触れ込みまくって、言論の自由を訴えよう。

イーロンマスクにも、自由の配給切符は渡さない。

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