ごめん、ニワシドリ
前の記事ではニワシドリをややこき下ろしたが、考え直して前言撤回。
ニワシドリの雄が作るモダンアートは子作りのための巣ではなく、単なるセックスアピールのためのシンボルにすぎない。巣は雌が単独で作るらしい。
ならば次のような問いを立てることができる。
もし、雄がモダンアート製作にかまけていないで、巣作りを手伝ったなら、より強固で大きな巣が作れるようになり、もっとたくさんの子を育てることができるのではないだろうか?
恐らくそうだ。しかし、なぜそうしないのか?
リソースを子育てに全集中させていれば、次はマルサスの罠がやってくる。つまり、人口過剰によるリソース不足だ。
もしかすると、ニワシドリは意識的にか無意識的にか、無尽蔵に子孫を残そうとする営みのデメリットを見抜き、足るを知っているのだろうか?
その適切なバランスへ向かうために編み出されたのが、ニワシドリによるややこしいセックスアピールなのだろうか?
ニワシドリのセックスアピールは、自らの生活基盤を侵さない程度に、慎重に行われているように見える。何度も槍玉に挙げて申し訳ないがオオツノジカのように、生命維持に必要なカルシウムすら犠牲にするようなことはなかった。
オオツノジカがもし、ツノを進化させるセックスアピールを採用することなく、例えばツノのサイズを変えずに装飾を施すなどの方向に進化していれば、オオツノジカは現代まで生き延びれたのかもしれない。
ならば縄文人に対する見方も少し変わってくる。彼らは定住しつつも無尽蔵に人口を増やす農業文化を生み出さず、過剰デザインを施した土器を作り続けた。これはもしかすると人口増へのリソース集中を防ぐための、進化論的な予防処置だったのかもしれない。
現代の人類が辿っているコースがオオツノジカなのか、ニワシドリなのかは見分けがつきにくい。少子化に向かう文明は、一見ニワシドリコースを順調に歩んでいるように見える。
しかし、人間は環境というリソースを無駄に食い荒らしている。オオツノジカの悲劇を、地球全体を巻き込みながら再演しようとしているのかもしれない。
ならば今の人類に必要なのは資源の過剰浪費のない娯楽なのかもしれない。近所の友達とサッカーしたり、漫画を書いたり、あれこれだ。要はブルシット・ジョブの解体と、加熱する競争の抑制(砂漠に捨てられる衣服をゼロにするような)が求められる。
結論はありきたりなものになってしまった。イデオロギーを進化論で権威づけするのもなんだか気が引ける。それでも書きたかったから書いた。むしゃくしゃしてやった。反省はしていない。
1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!