見出し画像

奇人・変人、集まれ

変人ぶりや奇行は、世の注目をひく資格を与えるというよりも、むしろ損なうものである。特に、だれもが個々の現象を総合して、全体の混乱の中にせめて何らかの普遍的な意味を見いだそうと志しているような時代にはなおさらのことだ。奇人とはたいてい個々の特殊な現象だからである。そうではあるまいか?
ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』

‥その通りだと思う。

世には、「変人を受け入れる度量の深さがあること」をアピールしたがる人は多いが、大抵その変人とやらはスティーブ・ジョブスなのだ。要するに「個性はいいと思うよ‥でもみんなが納得する結果を出さないとね!」というわけだ。

その傾向はきっと加速していると思う。

「現代に生まれ変わったアインシュタインはきっと大学院すらうまく修了できない」とは、実に的を得た指摘で、きっとマクドナルドでハンバーガーでも焼きながら一生を終えていそうだ。

サン=テグジュペリが「虐殺されたモーツァルト」と呼んだような、そういう人が世には溢れているに違いない。

なんせ世界の人口は80億近いのだから。

世界中で老子や仏陀、アリストテレス、キリストが活躍していた頃の人口はどれくらいだろうか。その頃と比べれば、人類は烏合の衆と呼ばれても仕方のない成果しかあげていないような気がする。

なぜ、その傾向が強まっているのか。そのプロセスは『官僚制のユートピア』に詳しく書かれているけれど、要は「その研究が成果を上げるという見込みをプレゼンすること」に研究者がエネルギーの大半を注ぐようになったから‥という説明がされている。

アインシュタインのような変人が、好奇心の赴くままに研究することが許されず、先に成果の見込みをプレゼンしなければならないのだ。

「うーん、なんとなくそうなんだよね」が許されない。因果で説明可能なロゴス的知性至上主義が、この全面的官僚制の時代を下支えしている。

変人が人の納得する結果を出すなんて、ほんの一握りに過ぎない。大抵の変人は社会に抑圧されて苦しんでいる。結果、単なるダメ人間の扱いを受ける。

奇人・変人たちはどこで生きていけばいいのか? きっと居場所はない。

僕は奇人・変人が好きだし、奇人・変人によく好かれる。無論、誰しも心の中に奇人・変人の要素を持っているだろうけど、それを抑圧することに耐えられないような人を、僕は奇人・変人と呼んでいる。なにかの才能があるかどうとかは、あんまり気にしていない。世の中に適応できない人は、奇人・変人だ。

奇人・変人は、インターネットの片隅で、適当に毒を吐いてガス抜きをするといい。そんなコミュニティでも作ってみようかな。

奇人・変人が、ありのままいられる場所。それはそれで特定のペルソナを要求するプレッシャーを放ちそうな気もする(無理して変人ぶらなければならないようなプレッシャーとかね)が、そういう理念のコミュニティって、やっぱり必要なんじゃないだろうか。

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!