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『14歳からのアンチワーク哲学 なぜ僕らは働きたくないのか?』というタイトルについて【出版社を作ろう 番外編】

コミュニティ内で、「どうしてこのタイトルをつけたの?」「もっといいタイトルあるかもよ?」という疑問を頂いた。

それはそうである。まだ出版していないわけなのだから、もっといいタイトルに変えてもいいのだ。だが、いずれにせよ僕がどうしてこのタイトルをつけたのかを伝えなければならないと思った。そこでDiscord内でテキストを書き連ねていたのだ。そして気づく。

あかん・・・文字数なんぼあっても足らん。

というわけでnoteにフルオープンにして、こっちで読んでもらうことにする。これもプロモーションの一環ということにしたい。いま話題(?)のプロセスエコノミーである。


■なぜこのタイトルをつけたのか?

1.子どもから価値観を変えていきたい

「地動説が受け入れられたのは天動説を信じる大人が死んだから」という話もあるように、次世代の価値観を生み出すのは若者であり、子どもである傾向にある。

一方で、子ども向けの書物といえば、労働や、現代社会の仕組み、お金の存在を礼賛する本が多い(「こうした労働は一見役に立たないように見えても、ちゃんと役に立っているのです」「お金がない社会を想像してみてください、きっとトラブルだらけでしょう」云々)。子どもはすでに行き詰っている現代社会の常識をいつまでも押し売りされている。僕はそうした風潮に一石を投じたかった。

子どもが特定の思想に染まりやすいかどうかはさておき、子どもがこうした殺菌された言論に出会いやすいことは間違いない(そして子どもは大人の公式見解の逆張りに走り、「労働vs余暇」という思考の枠組みから逃れられない。アンチワーク哲学はその枠組みそのものの設定を変える必要性を主張している)。ならば、バランスをとる意味でも、まったく異なる言論を子どもに届けたかったのだ。


2.子ども相手に不道徳なことを教えるインパクトを出したい

世間の大人は「子どもには建前を教えなければならない」という強迫観念を持っている。だからこそ、子ども向けの書物は建前の押し売りと化すのだと僕は考える。

そんな中「アンチワーク」「なぜ働きたくないのか?」といった言葉で子どもたちに問いかけていくことは、不道徳な行いのように見えるだろう。そして、それにショックを受けるのは子どもの方ではなく、大人の方だ

僕は「え、子どもにそんなこと教えていいの?」的な反応を大人から引き出してみたいのである。これはもはや面白半分である。


3.「働きたくない」を正義にしたい

この記事にも書いた通り、僕は人が「働きたくない」と感じることは正しいことだと思っている。

先述の通り、子どもに伝えていい言説というのは、建前であり、社会の公式見解である。大人が大っぴらに「働きたくない」と子どもに伝えるということは、逆説的にそれを公式見解化させるきっかけにできるのではないかと考えている。

そして、このタイトルを見た労働で消耗する大人にも「言っていいんだ・・・」という安堵を感じてもらいたいのである。


4.「14歳からの」的なタイトルは、大人も読んでいる

・・・というのはアマゾンのレビューや本屋での扱い(子ども向けコーナーではなく、普通に並べてある)を見ていて感じるところである。ほぼ「初心者向け」を言い換える常套句となっていて、別に「大人だから俺関係ないか・・・」などと感じるような人は多くないと僕は考える。特に「哲学」と冠された本の場合、多くの人は入門書を選ぶだろうと考えられるので、そうした意味でも「アンチワーク哲学」には「14歳からの」がぴったりだと思ったのだ。

あれ、もしかして13歳の方がいい・・・??


5.「アンチワーク哲学」は入れたかった

僕は「アンチワーク哲学」という名称にそこまでこだわるつもりはない(繰り返し主張してきた通り、僕が普遍的な理論を唱えているつもりなので、これ自身を僕の専売特許にするつもりはない)。だが、1つのムーブメントを起こすためには、なんらかの象徴的な名づけが必要だ。そうなると、その言葉をタイトルに冠しないわけにはいかなかった。それに、「アンチワーク」の時点で、中学生だろうが、大人だろうが、労働に対する反発の意味を読み取れるので、「意味を伝える」という観点はクリアできていると考えている。


6.いろんな本をパロディしたい

正直、パロディが行き過ぎて渋滞している感は否めないが、これらも子どもたちに対して公式見解を伝える本である。こうした本をパロディすることで公式見解をおちょくりつつ、新たな公式見解を打ち立てたいわけだ。

【主なパロディ元】


7.14歳の自分にこの本を読ませたかった

これが一番大きな理由かもしれない。僕にとって14歳は大人に押し付けられた常識に苦しめられていた時期だ。当時の僕は、常識に反発し単なる逆張り的なサボり行為を繰り返していた。しかし、いま思えば大人の常識から自由になりたいと願っていても、単なる逆張りを選ばされている状況は自由でもなんでもなかった。だから苦しかったが、どうして苦しいのかも理解できなかった。そして、結局僕は高校生になる前に大人たちの説得に折れた。既存の価値観を受け入れることを無理やり納得してしまった。「頑張って勉強して大学に行かないと大変なことになる」「労働は大変だけど、生きていくためには仕方がない」「不満を言うのは成功していない妬みだ。文句があるなら行動すべき」と。20代前半くらいまで僕は常識のレールの上で、公式見解を疑うことなく生きていた。

この本は、単なる逆張りに見せかけておいて、単なる逆張りではない知的ツールを読者に提供する。それは思考の空へと羽ばたくための翼になると僕は確信している。

14歳の僕がこの本を読んでいたなら、きっと今と同じ人生は歩まなかった。そして、当時ほどに追い込まれなかった。別に僕は自殺未遂をしたわけではないのだけれど、そうなっていてもおかしくはなかった。なら、きっとこの本で自由になれる子どもはいるはずだと思う。

もちろん子どもだけではなく大人も、である。大人なら、「この本を子どもに読ませたい」「自分が子どもの頃に読みたかった」という感覚を味わったことはあるはずだ。でも、別に遅すぎることはない。いつからでも人生は変えられるわけで、そういう気付きも「14歳からの」に含ませたいのである。


まとめると・・・

要するに、いろんな矛盾する観点からこのタイトルに落ち着いたのである。子どもに売りたいけど、子どもにだけ売るわけではない。アンチワーク哲学にこだわっているわけではないけど、こだわりたい。そんなこんなである。


1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!