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資本は自動運動なのか?

マルクスやマルクス主義者は、資本を自己増殖する運動だと考えることが多い。まるで資本が人間の意思から離れて、ドフラミンゴばりに人間をコントロールしているかのような言い草だ。

外側から見れば確かにそうだろう。資本の増殖に固執する資本家は、まるで悪魔に人格を乗っ取られたかのように見える。僕はあまりこの見方に納得していない。

それでも資本家は人間なのだ。1人ひとりの人間の行動は、なんらかのニーズに根ざしている。つまり資本は人間のニーズに突き動かされているのだ。

このニーズというのが「フェラーリを乗り回したい」とか「西麻布でウェイしたい」とか、そういう場合もあるだろう。しかし、僕はその根本的なところには「自分や家族が安心して食っていけるようにしたい」というニーズが潜んでいるように感じている。

どんな金持ちであろうが、未来を楽観視することは稀だ。「食えなくなったらどうしよう」「稼げなくなったらどうしよう」という不安感はおそらく億単位の貯金を持っていても生じるのではないかと思う。結局、資本が自己増殖していくことも、r>gとなっていくことも、その不安感に原因があると思う。

そしてご存知のように、資本の自己増殖を目指す運動が、世界の海をプラスチックまみれにし、労働者や家畜をゴミ扱いし、アマゾンを丸裸にする。もちろん、ワクチンを作ったり、洗濯機を普及させたり、いい影響力も資本にはあるだろう。

しかし、ここで注目したいことがある。不安感を抱えていなければ、わざわざアマゾンを丸裸にしようとする人はいないだろうが、不安感があろうがなかろうが、ワクチンを作る人は作るし、洗濯機を作る人は作るだろう。それは単純に役に立つからだ。役に立つものを作りたいと思うのは、人間なら当然の心理だ。

資本がなくても、人間は役立つものをたくさん作ってきた。小麦の脱穀方法やパンのレシピを考えた人は、きっとそのプロセスを楽しんでいたに違いない。

ならば、資本がなく、誰もアマゾンを切り開かず、それでいて少年ジャンプや核融合発電、BMWが存在する世界も想像できる。

ではどうやって資本の焦燥感を消すのか。僕の記事を読んでくれている人ならオチは想像がつくだろうから、もう書くのはやめにする。

僕が今回言いたかったのは、資本の原動力は人間のニーズであって、それは決して自動運動ではないということだ。大切なのは資本を運動させる人間をケアしてやることだろう。もちろんそれは、彼らにフェラーリを与えることではない。彼らは未来永劫、食っていけるという安心感が欲しいのだ。

そして、僕も欲しい。もしそうなれば僕は畑を耕したり、近所の子どもの面倒をみたり、人の役に立つことにもっと時間を割けるだろう。もちろん、日がな一日『ホグワーツ・レガシー』をプレイすることもあるかもしれないが、トータルで見ればきっとプラスになる。

そうなったらいいなぁ。『ホグワーツ・レガシー』やりたい。

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