見出し画像

学問を民主化したい【出版社を作ろう18】

「ニコ動出身」「ボカロP」が蔑称ではなくなってからはや数年。レコード会社のデモテープを送って、オーディションを受けて、正統な文化の権威に認められて初めてメインカルチャーの仲間入りができるシステムは、いつしか過去の偉人たちの縮小再生産を繰り返すようになり、飽きられる。そして、正統な権威を付与されていない在野の人々からメインカルチャーを越える熱狂を生み出すサブカルチャーが育まれていく。レコード会社といった権威側がそれを無視できなくなったとき、権威側はサブカルチャーを取り込み始める。米津玄師が辿ったこの歴史を人類は幾度となく繰り返してきた。音楽。お笑い。文学。アート。などなど。

だが、そうしたジャイアントキリングが圧倒的に起きづらい領域が1つだけある。それは学問の領域だ。

もちろん、理系の学問においては、その点はやむを得ない。在野の素人研究者が最先端の物理学や分子生物学の領域でイノベーションを起こそうと思えば、億単位(下手すれば兆単位?)の設備投資が必要となるだろう。ならば、それが積み重なった大学という権威のもとで研究しなければならないのはやむを得ない。

しかし、人文学の領域ならどうか。歴史、哲学、宗教、社会、経済。こうした領域は論文とデータと書物にさえアクセスできるなら、四畳半のアパートからでもイノベーションを起こせるはずだ。ソクラテスは大学の哲学科でカントやヘーゲルについて学んだことは一度もなかった。情報革命に意味があったとするなら情報が民主化されたことだった。しかし、情報を生産する権威は民主化されていない。大学が抱きしめて離さないのである。

なるほど、飲茶読書猿ヨビノリたくみといった人々の前例がないではない。彼らはインターネットというアウトサイドで哲学や学問の領域についての文章を書き、結果として出版社という権威に取り込まれるまでに至った。これは1つの達成ではある。しかし、彼らがやっていることは(というほど彼らの仕事を僕は知らないのだけれど、少なくとも彼らに求められているのは)過去の権威が生み出した成果の解説に過ぎないのではないだろうか? 単に大学という権威と一般読者をつないでいるだけであって、権威の外で権威に追従しているに過ぎないのではないだろうか?

(もちろん入門書は重要なので、彼らの仕事を否定するつもりはないので誤解なきよう! 僕は飲茶の本で哲学に入門しているわけだし)

僕がなにを言いたいのかと言えば、在野の哲学研究者はいても、在野の哲学者はいないということだ。

さらに言えば、先ほどは理系学問は在野研究がむずかしいと書いたわけだが、進化論や相対性理論を編み出すのには設備投資は必要なかった。すでに存在する観察結果(自分自身で観察しに行った場合もあるわけだが)にフィットする新しい理論的枠組みを提供すれば済んだのだ。往々にしてイノベーションとは、単なる理論的枠組みの更新に過ぎないことの方が多い。なら、在野研究ができない理由は文理問わず特にない。

さて、そろそろ我田引水しよう。僕がまとも書房でやりたいのはこれである。アカデミズムの民主化だ。それは単なる学問の解説レベルにとどまることなく、全く新しいパラダイムを生み出すような在野研究を発掘し、世間に問いかける。

noteを見ていれば、新しいパラダイムを引っ提げた野犬が彷徨いているのがわかる。このリストの方々の記事を見るだけで(到底「学問」と呼べないジャンルも含まれているものの)それは納得できるのではないだろうか。

おそらく、僕が見つけていないだけで、もっと面白いパラダイムを提供する在野の研究者は無数にいるはずだ。

とは言え障害はある。かつてピエール・ブルデューは次のように書いた。

<シヤンス・エ・ヴィ(一般向けの月間科学雑誌)>の読者が、自分の分際を超えて遺伝子コードや近親相姦のタブーについて語ろううとでもしようものなら、たちまち笑いものにされてしまうだろうが、逆にレヴィ=ストロースやジャック・モノーが音楽や哲学の領野に遊んだとしても、それは彼らの権威をいっそう増すことにしかならないだろう。

ピエール・ブルデュー『ディスタンクシオン(I)』藤原書店 p51

ブルデューが指摘しているのは、度を越えた専門家信仰である。専門家が専門領域の知識を有しているとみなされているだけではない。権威ある専門家はその専門領域を軸足に、専門外に遊んだとしても、卓越した知識と意見を発揮しているようにみなされるのである。成田悠輔や落合陽一のような(大学という権威に認定された)知識人が、どんなテーマについても物怖じすることなくコメントできるのは、こうした構造があるからだろう。なにを言おうが「おぉ、専門家が言うのだから間違いないな・・・」となるのである。

そして、権威をもたない者は・・・

自分が実際におこなうところのものでしかなく、いわば自分のなしとげる文化的な仕事の純粋な息子であるために、いつでも自分の力量を証明してみせるよう要求されかねない

ピエール・ブルデュー『ディスタンクシオン(I)』藤原書店 p49

・・・となる。常に疑いの目を向けられ、その主張は厳しくチェックされ、些細な欠点がたちまち晒上げられるのだ。

米津玄師の歴史から学べることがあるとすれば、はじめから権威に認められることをやろうとせずに、はじめは権威を無視してサブカルチャーの中でムーブメントを起こすべきという教訓だろう。そうすれば、権威側も無視できない存在へと成長していき、それに媚びねばならないタイミングがやってくる。

そういう意味では、悪くない状況だ。國分功一郎がよく言っているのだけれど、日本は人文書がよく売れる国らしい(ソースは知らない)。そして、書店で人文書を買う人は著者名にこだわらずジャケ買いする傾向にあるらしい(ソースは忘れた)。

さらに言えば、偉人たちの解説と引用に終始する正統の哲学者たちの醜態を見れば、そろそろ在野の哲学者が一世を風靡してもおかしくないと感じる。哲学以外の領域もそうだ。大胆な歴史解釈や前例のない経済思想、全く新しい社会理論。こうしたものが大学の中から登場しなくなって久しい。デヴィッド・グレーバーはこの状況を揶揄して、学者たちはフーコーやドゥルーズ、ラカンといった「フレンチセオリーにいつ果てるとも知れない注釈を施し続けている」と書いた。

つまり、在野研究者の新しいパラダイムを受け入れる土壌はあるのだ。単に、出版社がそれを発掘しようとしていないだけに過ぎない。

学問は民主化できる。まとも書房ならそれができる。もちろん、アンチワーク哲学はその第一歩である(と、自分では思っている)。

「学問を専門家の手から解放しろ」みたいな話はよく言われる。だがそれは「専門家が生み出した知識を飲茶や読書猿のような人に咀嚼してもらって丸暗記しろ」という意味なのだ。真の意味での解放とは、誰しもが知識を生み出せる状況だろう。哲学や経済、社会学を生み出すということは、それ自体が社会に対する主体的なアプローチになる。逆に言えば、それができないということなら、社会全体の行く末を専門家の手にゆだねてしまうことに等しい。真の意味での民主主義社会には、学問の民主化が不可欠だ。

まとも書房は、真の民主主義を実現するための出版社なのだ。

(・・・と言うと、すげぇソーシャルグッド感がでる。クラウドファンディングをやるにあたって、ソーシャルグッド感は大事なので、積極的にソーシャルグッド感のある記事を書いていこうと思う)

1回でもサポートしてくれれば「ホモ・ネーモはワシが育てた」って言っていいよ!