自己責任論体育会系事勿れ実存主義を乗り越える僕の哲学

NHKの受信料は払っていないけど、100分de名著というNHKの番組が好きだ。この番組のおかげで、分厚くてくだらない本を読んで時間を無駄にしないで済み、どれだけ時間を節約できたか分からない。

『存在と時間』なんかはまさにそう。読まなくてよかったよ。

20世紀最大の哲学書だなんだと言われていたけれど、番組を見てみれば既視感ありありの実存主義哲学のマイナーチェンジバージョンだった。「思考停止して空気を読んでたら独裁者に流されるから、自分の頭で考えましょうね〜」「誰かのせいにするのではなく自分の人生を生きようね〜」というお馴染みのやつだ。

体育会系な自己責任論を経て、最終的に事勿れ主義にたどり着くことで名高い実存主義哲学は、現代の意識高い系と相性がいい。まぁ自分ひとりでやってる分にはいいんだけど、実存主義の押し付けは単なる搾取と全体主義になるからごめんだよ。

人の生き方をどうこうしようとする押し付けがましい哲学は、どうにも解放感に欠ける。問題をほじくり返して、知らん顔するタイプの哲学の方が僕は好きだよ。ヴィトゲンシュタインとか、ニーチェとかはまさにそんな感じだった。

望まぬ運命が、不幸とは限らない。私は泥の中で咲く花になりたい。

アニメ『平家物語』を観てたらそんなセリフが出てきた。

このセリフは奇妙に美しい。実存主義的で、体育会系で、事勿れ主義な人は、なぜか美しく見えるものだ。

美しいけど、これを他人に押し付けると気持ち悪くなる。置かれた環境に満足することは幸福になるために必要だが、同時に置かれた環境を変えたり、環境を移ったりしてから、幸福になるというロードマップも人間には残されている。周囲に訴えかけて環境を変えるやり方もある。誰かに責任を押し付けることがあってもいいし、実際にその人に責任があるということもある訳だ。それなのに人は事勿れ主義ばかりを美化する傾向にある。

美化し過ぎると、結局それを押し付けられる。意識高い系が「文句言わずにまずは稼げよ」みたいなことを言うのは、まさしくそのような現象で、その河の上流にはハイデガーがいるんだろうね。

現代には恐らく実存主義は必要ない。それは最終的に弱者を攻撃する論法に使われるから。

弱者が弱者のままでいられる、無責任で、ワガママな、そんな哲学が必要なんじゃないだろうか。責任なんてものは世界に存在しないし、それは原初的負債を背負わせてヒエラルキー憎みこもうとする強者の論法にすぎないわけだ。それに、ワガママな人は他人に迷惑をかけず、どちらかと言えばワガママを咎める人が他人に迷惑をかけている。価値観をゼロに近づけていくような、そういう哲学を展開すれば良い。

断じてマルクスガブリエルのような哲学ではないね。普遍的な倫理が存在するとうたいながら、それを自分たちで設定して押し付けるという矛盾ありありな哲学は、なんら解放感がないね。

無責任でワガママな哲学。誰が生み出せるだろうか。いや、もしかしてもう、僕はそれを生み出しているのかも?

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