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ハイデガー『存在と時間』を読んで

いやぁ長かった。最初から最後まで読み終えるまでに2ヶ月くらいかかったのではないだろうか。2ヶ月もあれば、読みたい本はどんどん増えていくのだが、その間も我慢してひたすら『存在と時間』を読み続けた。

なぜ読もうと思ったのか? 僕は『存在と時間』とは、体育会系の香りが漂う実存主義の1形態に過ぎないという先入観をずっと抱いていて、これまで敬遠していたのだ。が、ついに読もうと思った。

読もうと思ったきっかけは以下の通り。

要するに人が何らかの行動を起こす際に、それをどのように動機づけるのかを解明するのに、ハイデガーの哲学が役に立つのではないかと考えたのだ。単なる体育会系的実存主義であるという色眼鏡を取り外せば、人間が何を望み、何を嫌悪するのかについての抽象度の高い議論が見られるのではないかと考えていた。

結論から言えば、そうはならなかった。『存在と時間』は、あまり役に立たなかった。というか「結局、ただの体育会系じゃん…」となった。

僕の2ヶ月の成果はこれである。僕の心の中はいま「ワンピースの正体は、これまでの冒険を共にした仲間だ!」と言われるような失望感で覆い尽くされている。

もちろん、ハイデガーは何も悪くない。僕が勝手に期待して、勝手に失望しただけの話なのだ。だが、どうにも腑に落ちない。僕は狐につままれたような感覚なのである。おそらくハイデガーの読者の大半は、似たような感覚に陥るのではないだろうか。

『存在と時間』は「Sein(要するにBeとかBeing的な意味での存在)」を解明するために、Seinを了解し定義する存在としての現存在(≒人間)を解明していくという大義名分のもと書き始められた。それは結構な話である。導入部分に関しては、看板に偽り無しであると感じながら読み進められた。

だが、中盤あたりからだろうか。急に「本来的現存在」とか「覚悟性」みたいなイデオロギー臭のする用語を使い始めた。急に早口で「世間に流されるやつはダメダメで、覚悟性を持って本来的な生き方をしようね~」みたいなことを言い始めたのだ。無料のくじ引きが終わった途端にウォーターサーバーの説明が始まるような、そういう胡散臭さを感じずにはいられなかった。

そして、もうダメだった。そこから先は入ってこなかった。「Sein(存在)」の次にくる「Zeit(時間)」がなぜ重要なのか、最後までよくわからなかった。なぜハイデガーが「死」にやたらと固執するのかもわからなかった(死を意識しようがしまいが、どっちでもよくないか?)。ハイデガーの言う本来的が何なのかもわからなかった(世間の意見と自らの意見との境界線を引く感じが、めっちゃ気持ち悪かった)。というか、その辺りに関してはほとんど同意できなかった。

まぁ「『存在と時間』はまだドイツ語にも翻訳されていない」なんてことが言われるくらいだし、僕のハイデガー理解は極めて浅薄なものであると認めざるを得ない。なんていったって滑り込むように深夜2時に読み終えて、そのまま感想を書き殴っているのだ。半ばヤケクソである。「2ヶ月もの時間を返せ」と、そんな気持ちなのだ。

ハイデガーが目の前にいたなら説教してやろう。『存在と時間』わかりにくいんだよ、と。ナチスに入ってもいいし、アレントと不倫してもいいけど、もう少しわかりやすく書けよ、と。

残念ながら『存在と時間』は次回作の役には立ちそうにない。気を取り直して、また違う本でも読もうと思う。次は薄い本にしよう。

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